男の流儀
男の小道具といえば、その筆頭は、かつては万年筆だった。
まずは、ネジ蓋式のペリカン。スポイド式になっているから、インク壺が必要になる。使い勝手は決してよくない。インクが手に付いたり、不覚にもインクを垂らして紙をダメにすることもある。
次は、カートリッジ式のモンブランかパーカー。私は、この3本とも持っていた。
なによりも、書き損じたり、推敲していて、わけがわからなくなった原稿用紙をくしゃくしゃにして捨てなくていい。
原稿用紙に万年筆で書いていた頃は、高い原稿用紙が机の回りにゴミのように溜まっていた。いま考えれば、じつにもったいなく、贅沢なことをしていたと思う。
いま、携帯している筆記具は、なにかメモを取るときがあるので、CROSSとOHTOのボールペン。それ以外は、PENTELか、三菱UNIの鉛筆しか携帯していない。
それでも、ボールペンはこの二社にこだわっている。書き心地、すべりがいいからだ。鉛筆も10代の頃からのこだわり。
鉛筆は台本のカット割りやラフなメモ書きのときに使っている。カット割りは、コピーしてスタッフに渡すので、どうしても濃くないといけないため、Bか2Bだ。
ワードを使うようになってから、私は原稿を上げるのが速くなった。学生時代、独学で英文タイプを覚えた。それがワープロやPCでローマ字入力ができることが幸いした。私は、周囲も驚くほど文章を打つのが速い。考える先から文章を入力できるからだ。
原稿用紙に万年筆のときは、思うように書き物が進んでいないと、字体や書いている原稿用紙とペンの相性までが気になる。その些細なことで筆が遅れる。
一方で興に乗ってしまうと、言葉が筆に追いつかない。結果、ミミズのような文字になり、うちの劇団の俳優やスタッフの間では、これを解読できて一人前と冗談をいうようになった。
一方で興に乗ってしまうと、言葉が筆に追いつかない。結果、ミミズのような文字になり、うちの劇団の俳優やスタッフの間では、これを解読できて一人前と冗談をいうようになった。
これは、いま映画をやっていても、カット割りに書きこんだ文字を読めるようになって、初めて秀嶋組と、スタッフ同士で冗談を言い合っているのと同じ現象だ。 確かに、なぜか、カメラマンのHは、なんなく、私の乱筆を読みこなす。なぞだw
PCが登場して、溢れる言葉に筆が追いつかないということもなくなった。ミミズような文字も直筆以外ではなくなった。
だが、それでも、私の机の抽斗の奥には、太いペリカンの万年筆が眠っている。スポイド式ではなく、ネジ式でゆるめるとインクを吸いこむ一番古い型のものだ。
使わなくても、捨てられない。それが男の小道具の流儀だと思う。そうしたこだわりや構えを暑苦しいと思う人がいるだろう。
PCが登場して、溢れる言葉に筆が追いつかないということもなくなった。ミミズような文字も直筆以外ではなくなった。
だが、それでも、私の机の抽斗の奥には、太いペリカンの万年筆が眠っている。スポイド式ではなく、ネジ式でゆるめるとインクを吸いこむ一番古い型のものだ。
使わなくても、捨てられない。それが男の小道具の流儀だと思う。そうしたこだわりや構えを暑苦しいと思う人がいるだろう。
また、そうしたこだわりを持つ人も少なくなっただろう。私が閉店した大坊さんの店の珈琲にこだわったようなこだわりを持つ人は少ないかもしれない。
だが、それでも、男の流儀をなくしては、世の流儀もなくなる。人の流儀も地に落ちる…と私は思っている。うざいと思われようが、いうべきこと、通すべき筋は通す。