秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

共同幻想

オレの公式HPの今月の評論OUTは震災後、休止したままになっている。そこに、HPを開設して間もない頃、「幻想としての社会」という短い評論を書いた。その一部を紹介したい。
 
「社会が社会としての姿を保つためには、法制度や倫理観、道徳観などの社会規範によって、一定のルールが社会を構成する人々に自明のこととして理解され、認識される必要があると考えられています。しかし、見方を変えると、これは、仮想のシステムに過ぎません。なぜなら、一定のルールという幻想を皆が共有しているだけのことで、それだけでは、何ら実体を持ちえないものだからです。
 
社会という枠組は、本来、それほど脆弱で、社会的合意という幻想の下に、辛くも成立しているに過ぎないものなのです。
 
したがって、ある時代、ある時点で共有されていた一定のルールが社会を取り巻く諸情勢によって、変容するということもありえます。社会に起きる諸問題、事件、事故といったものから社会そのものがルール変更へと向う。それができないとき、社会には様々な歪みや軋みが生まれます。社会は幻想の上に成り立っているという認識を社会そのものが失ったとき、そこに危機的状況が生まれると言い換えてもよいでしょう

オレたちが日々、当然のように生活している生活空間にあるもの、そこにおける他者との関係性は、契約の概念やイデオロギーでは包括できない。
 
人間という存在は所詮、情緒的であり、情動的な生き物でしかない。その本能的欲求をコントロールできるのは、概念や理念といった理性ではなく、他者性の中でのふるまいの作法を「こういうものであるべき」と多くの人々が幻想を共有しているからこそ成立する。マックス・ウェーバーがいう、人々の行動を既定するもの、ethosエトスだ。
 
たとえば、女性が体を売るという生業をしている場合、女性は、客の男を喜ばせなければ…と考え、性的な奉仕を尽くし、その代価の支払いに感謝を述べ、リピーターとなってもらうべく、営業をふりまく…という不道徳的といえる行為の中にも、社会的な枠組みを保つためのふるまいの作法が根付いている。
 
借金や何かの形に、体を売るという行為を強いられ、ピンはねをされながら、性の場を提供している風俗店の店員や経営者、その背後にいる闇の世界の男たちに、礼を尽くさなくては…と考えるのも、同じ根拠によっている。

理性でいえば、行為の不道徳性は明確でも、そこでのふるまいの作法は性を生業としていない人々となんら道徳的な本質において変わらない。それによって、不道徳の中でも、社会を維持するための一定のルールが保たれている。

しかし、多様性と過剰流動性が社会に広がったいま、そのふるまい、作法を人々が不特定多数の他者と共有するということは容易なことではない。家庭、地域、社会というものの枠組が、戦前や戦後、そして高度成長期のように一枚岩ではなくなっている。大衆から分衆、そして弧衆化へと人々の幻想が分断、分節されていったからだ。
 
わかりやすく、さきほどの例をつかえば、肌を露出し、女性・性を商売のツールにしつつも、キャバやガールズバーで働くことを選択する女性がいる一方で、ネットのチャット風俗で裸身をさらし、自慰行為を見せる生業を選択する女性もいる。また、直接的にデリヘルやホテトル嬢として働くものもいる。あるいは、金など物理的な獲得の欲求で、富裕な男性と交際し、結婚するという選択をする女性もいるだろう。それを不道徳と批判しながら、一方ではまた、浮気や不倫をする女性もいれば、男性もいる。

ひとつ性や風俗にかかわる選択においても、人々は一枚岩ではない。そうなると、個々が共有する幻想はあいまいになり、当然ながら、家庭や地域、社会、ひいては国家の枠組みまでもが脆弱であいまいなものとなるしかない。
 
その理解がないところで、中国漁船が国境を侵犯したのは懲罰すべき! 韓国の竹島の実質支配はけしからん!といっても、国民共通の怒り、共通の課題、危機意識とはなっていかない。これは日本ばかりでなく、いまや国境というものさえ、人々に共有された幻想であり続けることが難しくなっている。

昨日亡くなった、吉本隆明は、「共同幻想論」の中で、すでにこれを論破し、予見していた。地域の枠組みが壊れ、国や政治
の威信が落ち、震災後のこの国がどうあるべきなのか…それを大きな問いにしたこの国で、吉本の共同幻想論はもっと着目されていいだろう。

これまでの国家、社会、地域、家庭というものに共有されていた幻想は破たんしたのだ。いまはそれに代わる、新しい幻想を人々は必要としている。