秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

サイファを解け

時代の予見。あるいは時代の先見というのは、難しいことではない。難しいのは、予見や先見を生む、学習を積むことだ。
 
その学習も成功や成功者から学ぶのではなく、失敗や敗者から学ぶことであり、失敗の中にある共通性や普遍性に気づけるような横断的で複合的、重層的、複眼的な学習をすることだ。
 
たとえば、素数の謎をとくのに、数学だけではなく、物理学やミクロの研究分野である非可換幾何学(ひかかんきかがく)などあらゆる分野の叡智の結集がなくてはできなように、ひとつの認識やひとつの分野の理解のみで、すべてをわかったような学習をしないことである。
 
素数が宇宙の成り立ち、根源、姿をとく、神の数式のヒントであるということは、いまやこれに挑戦する人々の自明となっている。数理の世界だけではなく、分子生物学や宗教学ですら、そこに導引しなくてはいけない状況が生まれつつある。

もうひとつは、時代を読む感性を鍛えること。
 
世の中に出現する事象には、必ず、次につながる予見や志向性が潜んでいる。かつ、それらの事象には、分野を越えてつないでいくと、必ずどこかに連関性や未来のために、「私を紐解け」というサイファがある。

それは言い換えれば、生活者の深層にある明日への願望、明日への危惧、明日への不安を読み解くことだ。言うまでもなく、生活者というのは、あらゆる人々のことだ。あらゆる人の中にある、多様性のそれを読み解くことだ。

偏狭(へんきょう)さや狭隘(きょうあい)さに支配されていると、これはできない。何かに対する偏見や差別があれば、これも同じだ。予断と決めつけ、経験主義に陥り、あらゆる可能性の排除を生む。盲目的、狂信的、独善的にしか、時代を読めない。
生活者の深層にあるものとは、いいかれば、意識の世界だ。
 
私の好きな世阿弥も、シェークスピアも、ジェイムス・ジョイスも、ヘンリー・ジェイムスも、あるいはユングも、ベケットも、人々の意識、それがつくる世界の意識を考え続けた。現実と意識のかい離を解こうとした。意識が現実を支配する世界の実相を見ようとした。もっといえば、宇宙をその統合の意識体として理解しようと挑戦した。

人々は、すべてを言葉にしない。あるいは、言葉にしたくてもできないときがある。人々は、すべてを行動に移せない。あるいは、行動に移したくてもできないときがある。それが人なのだ。
 
成功と成功者の論理でしか、それを見ない人には、人のその本質がわからない。現実だけでしか物事の判断ができない人にそれはわからない。

人々の決意と動向は、現実に見えるものにあるのではなく、見えないものにこそあるのだ。雄弁ではない人たちの、声にすることのできない人たちの、苦しみと痛みと悲しみの中にある。
 
投げやりともいえる絶望とあきらめと倦怠の中にこそある。それらには、必ず、そうなる前の、そうならないための、予兆と予見と先見を語るものがいたのだ。語らせる自然や環境の動向が同時に、あったのだ。

その時、その時代、そこにあったサイファ。それを解けるか解けないかですべてがよくもなり、悪くもなる。