秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

後遺症

学生の頃、友人や仲間たちと冗談もずいぶん言い合ったが、社会のことや政治のことになると時には、互いに激昂して、激論を交わすということがあった。
 
居酒屋のテーブルをたたき、他の客がいることも忘れて、まだ未熟だった互いの考えをぶつける。じつに人迷惑な話だ。周囲に謝りはしたが、それをほんとうに悪いとも、迷惑だとも思っていなかった。
 
あまりの激しさに店の人間も、他の客もあからさまに文句をいわなかった。すいぶん経って、そうした店をふと訪ねると店の人間がよく覚えていた。
 
「あの頃は、すごい話をしていましたよね、机叩いてw でも、その情熱にはいつも感心していたんです」。店の人たちは、聞いていたのだ。そして、すごい話をしている…そう思って、ギリギリ許してくれていのだ。
 
早稲田小劇場がまだ、劇研の有志の集まりだった頃、モンシェリという喫茶店でよくこれをやっていたらしい。社会や政治のこともだが、演劇についての激論だ。
 
それを聞いていた店主が、まだ学生だった鈴木忠志別役実にいった。
 
「あんたたちの議論は、すごい。ここにはラグビー部の連中もよくきて、すごい議論をやるが、あんたたちのはそれより数倍もすごい」。
 
そのときの議論は、新しく立ち上げる劇団の常設劇場をどうするかというものだったらしい。店主は、そのあとに続けた。「あんたちのように真剣な奴は見たことがない。うちの上でよければ、貸してやる」。
 
そうやって、のちに、演劇の言葉に革命を起し、岸田戯曲賞をとる別役実の作品やその後、「劇的なるものをめぐって」で、世界の演劇の舞台に登場する鈴木忠志の劇団、モンシェリ2階の早稲田小劇場は誕生したのだ。
 
なぜあの頃、あんなに激論が交わせたのだろう。それでいながら、なぜ互いの友情にひびが入ることがなかったのだろう。なにかあれば、互いを心配し、事があるとだれかのアパートに集まっていた。
 
互いが同じように貧しく、同じように無名だったということもあるだろう。そして、社会のどこかになんとか自分の居場所をみつけようと同じように必死だったからだと思う。

だが、そうした議論の経験は、貴重な財産になったと思う。若さだが、議論で屈しないために、それがモチベーションになって、必死で勉強した。そして、いつか議論に屈しないための勉強の枝葉が広がり、直接、議論とはかかわらない分野にまで広がっていった。

そして、いろいろな枝葉末節が結びつき、ひとつの世界が見えてくるようになったのだ。すべてではなく、自分の居場所である演劇を起点として、それに必要な学問を吸収しよう。そう自分の世界を整理すると、あらゆることが、ひとつに収れんされていった。

だから、私にとって、社会的な活動も、映画や舞台の活動も、じつはひとつの同じ世界のことなのだ。もっといえば、異性との付き合いも仲間や友人たちとの交流も、その出会いや関係はさまざまでも、ひとつなのだ。
 
本来なら、ある分野のスペシャリストという生き方、ある人間関係の世界だけに生きる生き方、あるいは、プライベートとパブリックを分けた生き方というのが本当なのもかもしれない。
 
しかし、それでは体系をつかむことも、動じないなにか、普遍的なものと出会えないということも感じてしまった。

いまあのときのように、激しく議論することはないが、15歳から受けた演技訓練と同時にやっていたシンガーソングライターのせいで、夢中になってしゃべりだすと声がでかくなるw

後遺症は残っているが、そのおかげで、収れんされていない人の言葉の軽さやウソは見抜けるようになった。わかったようなことをいう奴にむかっとする悪い癖は、いまも治らないw