秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

得か損か

得とか、損とかで、人とかかわったり、付き合ったりしたくない…だれもがそう思ってる。
 
ところが、よくよく考えてみれば、大方、人は損得で人とかかわっているのだ。
 
儲かる儲からないといった打算やこの人の近くにいれば、立場がよくなる、安定するといった計算もそうだ。
 
だが、一見、打算や計算には見えないかもしれないけれど、その人といて、心地よいか心地よくないかというのも、じつは損得勘定。
 
心地よければ、その人といるが、心地がよくなくなればいなくなる。自分の都合でそうなるとしたら、それはどこかに自分中心の損得勘定があるからだ。

あるいは、だれか他人のために尽力し、手助けをして、何の報酬や見返りを求めない人でも、その徳の積み重ねが、いつか「徳」から「得」になると考えるのも、人のために尽くすとはいえ、結果的には損得勘定がどこかにある。

神や仏ではないから、すべてを人の為、世の為、道の為に投げ出せる人などいない。
 
だから人は、自分の生活があってこその、人の為、世の為、道の為があるのだという。生活を削ってまでも、得にならないことをやれないからだ。まずは足元。多くの人がそう思うし、そういうだろう。

それを否定する気も、それぞれにある打算も計算も、損得勘定も否定しない。それが人であり、それが普通であり、至極、まっとうなことだと思う。そのまっとうで、普通を続けることも、大変だろうと思う。

だが、どうも私は合点がいかない。人に甘え、人に頼り、人の情にすがって生きてきた人生だから、甘ちゃんなので合点がいかないのかもしれないが、人には後先考えずに、何かの為に、いのちを使うということも必要なのではないだろうか。

生活や生きることが苦しくても、まず足元と考えなくてはいけないのは当然としても、それでも、すべての人ではないが、後先考えずに何かをやる人がいなければ、この世に、なにも新しいものは生まれず、この世を変えるなにかの力も育たないように思う。

みんなが安全なところにいて、みんなが安心を担保されて、そこでできるわずかばかりの人の為、世の為、道の為をやるのも、それはそれで意味もあるし、大切なことだ。
 
だが、この世の人、すべてがもしそうだとしたら、なんとせつない世の中だろう。なんとやるせない世界だろう。モデルや目標となる人のいない世界は夢がない。
 
とはいえ、私にもそんな大仰なことはできない。いつも、夢を語っても敗北続きだからだ。
 
負けて、負けて、負けてばかりの人生。ときには負けるとわかっていても、いってしまうw もちろん、少し勝ったかなというときもないわけではない。だが、ここ一番の勝負のできないところにいては、少しの勝ちも、どこかで負けになる。

人生、勝ち負けではない。だが、語った夢のせめて、扉くらいは開いて、死にたいものだ。
 
母校大学のラグビーでいつも思っている。いくら負けてもいい。だが、最後に勝つ。勝たないまでも、最後に母校ラグビー部の矜持と誇りを示せ。
 
しかし、もうそんなに時間はない。最後に、損得の過ちだけは、謙虚に反省できる自分で終ろう。