秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

肉を切らせて、骨を切る

世の中の多くの人は、それが実業や実益に跳ね返らないと汗することも、苦しい道を歩むこともできないという。
 
いかに高邁な理想があって、それが素晴らしいことだと評価はしても、いざ、自分がその場に身をおき、実業や実益にならないものに対して、身を粉にして働くのは容易ではない。
 
人は霞を食べて生きているわけではない。自分の損得を考えなくては、生きる術がない。損得抜きで世のため、人ためというのは簡単だが、それはある意味、言葉だけのことに違いないと考え、見切らなくては、ほどほどの暮らしとは保てないものだ。
 
しかし、実業や実益だけにしか汗を流せない、あえて苦しい道は進めない。時間を使えない。その計算と斟酌ばかりが頭にあって、果たして、物事すべからく、うまくいくものだろうか。人を説得したり、人を集合したりできるものだろうか。
 
そうしたところで発せられる言葉やふるまいは、人を何事かに納得させたり、上辺の信頼ではないものを勝ち取るのは容易ではないと思う。
 
剣道の奥義のひとつ。「肉を切らせて、骨を切れ」。大一番の勝負では、自らも身を切られる覚悟でなくては、勝負に勝てない。つまりは、自分の安全、実益を考えていてばかりでは、勝負に勝つことはできないというものだ。
 
おおよそ、人というのは、自分が流している汗がどのようなものかを知っている。その汗に応えているものの手ごたえのありなしも感じている。だから、「肉を切らせて、骨を切れ」という考えも生れる。
 
だが、上辺や上っ面の社交術ばかり身に着けてしまった奴というのは、なにが真実で何が表層なのかがわからない。表層的でもそれが社交術と思い込んでいるから、肝心の手ごたえの感触というものがわからないのだ。こうやっていれば、人は喜んでいる。喜ばせて、自分は信頼をえていると勘違いし、その勘違いにすら気づけない。
 
先に手を出して、なにがしかの実益を求める奴もいやしいが、手を出してないように装いながら、それが透けて見える奴は、もっといやしい。

いつからか、この国の人から品格や品位が失われ、金や地位や名声を調子よく手に入れようとする、いやしさが蔓延した。虚飾や虚栄で身を固め、自分が人や回りや社会に支えられて、ここにあることのありがたさを見失っている。
 
いやしい心は、自分のいやしい物差しでしか、人を理解できない。そうではない人間がいることも、そうではない精神があることも、信じることができない。だから、虚勢は張っても心穏やかでいられることはない。虚勢を張らない楽をしようとすれば、人をさけるしかなくなる。
 
人が何事かに汗を流しているとき、実業や実益の損得でだけ人と付き合う人間の精神は、いやしさを通り過ごし、下品といえるだろう。
 
儲けを考えて当然…実益を主張して当然…。それがまるで恥入ることもない言葉になった。恥じ入るどころか、自慢できる言葉にさえなってしまっている。だが、オレは、そうした言葉を聞く度に、悲しくなり、虚しくなる。
 
少なくともオレが育った子ども時代から成長過程で、それは、大人たちも子どもたちも、恥ずべき言葉とだれもが知っていたからだ。