秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

それをいっちゃ、おしまいだよ

子どもの頃から、あなたは、無理だというのに、そこを行こうとする癖があると母によくいわれた。そして、結局、いけなくて、失敗してからしか学ばないとも。
 
つまり、人の意見を受け入れないで、傷を負うということだ。
 
ひとえに、自分の思い入れが強い、深すぎるからだ。これはやらなくてはいけないことだと思うと、いろいろな試練があっても突き進むしかないと考えてしまう。
 
もちろん、そうなるからには、それなりの理由があるのだが、物事に入れ込み過ぎると、夢中になるあまり、状況判断を誤ることがある。

同時に、こうした思い入れや熱意に満ちた人間の前では、そうではない人はなかなか自分が思うことや反論を言葉にしずらいらしい。

こんなに情熱を傾けているのだから、それはこの人の好きにさせるべきだろうと考えてしまう。それが、相手にある不都合をいえなくさせる。裏切りのように思えるからだ。
 
一方で、情熱を傾けている人間からすれば、もし、そうしたものがあるなら、なぜ、言葉にしないのか、きちんと説明し、話し合おうとしないのかと思う。

まちがっていれば、まちがっている。誤解しているのであれば、誤解している。いやなら、いや。あるいは、そんな情熱に付き合う気持ちはなかったと率直に伝えればいい…と考える。

 
だが、思い入れが強い分、決して、怒っているわけでもないのに、語るときの熱い口調が人に威圧感を与えてしまう。場合によって、それがかえって、こちらの思いの奥にあるものを伝える場合もあるが、大方、そうでない場合の方が普通のようだ。

自分がいやなので、人をなにかで縛ることも、不自由を感じるような自由の奪い方も、接し方も好きではない。

いやならいや、不快なら、不快。なにかを明確にして、次へ進むのが互いにとっては一番いいことだと思うが、口の達者じゃない人には、それだけで逃げ出したくなるらしい。
 
それをいっちゃ、おしまいだよ…という言葉を使いたくないのだ。

だが、どうなのだろう。それをいっちゃ、おしまいだよと思われても、ぶっちゃけ、それをいうから、結果的におしまいにはならないのではないだろうか。
 
もし、人が人との力関係や立場の違い、生活文化の相違、世代のズレといったものだけに支配されてしか人とのつながりを持てないとしたら、確かに、それでおしまいになるのかもしれない。
 
しかし、私は、おしまいになる覚悟をもって、おしまいにしない道を歩みたい。
 
そう。それは、面倒くさいことなのかもしれない。だが、寅さんの家族も周囲の住民も寅さんも、それで人と人のつながりをつくっている。