ひとり相撲
子どもの頃から、よくひとり相撲をしている。ひとり相撲というのは、別にひとりでとる相撲のことではない。
小学生のある時期、わけあって、帰宅するとずっと自宅にいた。仕方ないので、使い終わった電池に上り旗を爪楊枝と紙でつくり、テープでつけて、兵士に見立て、合戦ゲームを思いついた。敵と味方に電池を見立て、陣形をつくり、自分で合戦ストーリーをその場で考えていくのだ。
小学生のある時期、わけあって、帰宅するとずっと自宅にいた。仕方ないので、使い終わった電池に上り旗を爪楊枝と紙でつくり、テープでつけて、兵士に見立て、合戦ゲームを思いついた。敵と味方に電池を見立て、陣形をつくり、自分で合戦ストーリーをその場で考えていくのだ。
あんた、ヘンな子どもやったねぇ…と、後年、姉にいわれたことがある。でも、いまにして思うと、いまの仕事、あれが始まりやったとかもしれん…。さすが、姉だ。
私たちの仕事は、始まりはひとり相撲だ。
こんな物語をつくりたい。こんな話を舞台にしたい、映像にしたい…。そこから始まる。もちろん、これを観客や視聴者に訴えたい、伝えたい、感じてもらいたい…。その思いが根っこにある。
脚本や台本を書き始めれば、子どもの頃の合戦ゲームのように、こう動く、こう言葉をいう…と登場人物を描く。だが、本当に書けるようになったときは、それぞれの登場人物たちが、勝手にしゃべりだし、勝手に動き出す。次はこのシーンと、自然に場面が変わっていく。
登場人物の造形が現実に変わっていく。
脚本や台本を書き始めれば、子どもの頃の合戦ゲームのように、こう動く、こう言葉をいう…と登場人物を描く。だが、本当に書けるようになったときは、それぞれの登場人物たちが、勝手にしゃべりだし、勝手に動き出す。次はこのシーンと、自然に場面が変わっていく。
登場人物の造形が現実に変わっていく。
現場で演出を付けるときには、俳優・スタッフを私のひとり相撲に付きあわせる。これまで、ひとり相撲だったものをひとり相撲ではなかったように、仕込んでいくのだ。
大小の違いや作家、監督のキャラクターの違いはあるだろうが、私は多かれ少なかれ、この世界にいる奴は、みんなひとり相撲をやっているのだと思う。
大小の違いや作家、監督のキャラクターの違いはあるだろうが、私は多かれ少なかれ、この世界にいる奴は、みんなひとり相撲をやっているのだと思う。
そのためには、思い入れと思い込みがいる。それがないと俳優、スタッフも私のひとり相撲を笑うだろう。視聴者も観客も受け入れてはくれないだろう。
震災後に始めた、福島支援協働事業もすべて、ひとり相撲から始まった。
ひとり相撲は、私の勝手な思い込みと思いだ。だから、強要はしたくない。だが、少なくとも、その勝手かもしれないけれど、強い思いだけは相手に伝えたい。感じてもらいたい。それは、私の欲望だ。
だが、いつもイベントや映画の制作が終わったときに、虚しくなる。やはり、最後は、ひとりで終わるからだ。ひとり相撲を考え出し、人を巻き込み、完成すれば、また、ひとり相撲を始めるしかない…。
あっちでも、こっちでも、ひとり相撲。そろそろやめにしたいが…私の欲深さがそれをやめさせない。欲しいものは欲しい。実現したいものはしたい。
あっちでも、こっちでも、ひとり相撲。そろそろやめにしたいが…私の欲深さがそれをやめさせない。欲しいものは欲しい。実現したいものはしたい。
そのどこがいけない。と、虚勢を張って開き直ってみる…。