秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

泰然と自己愛

泰然として事にあたる…というのは言葉では簡単だが、容易ではない。
 
だから、一気にそうなろうとするのではなく、まずは、自分を捨てて大局をじっくり眺めることだ。
 
自分の考えや主張を押し通そうとするほど、それらを取り囲む情勢や状況、大局が見えなくなる。一方的になる。つまりは、真実や実相が見えなくなる。結果、大きな誤った判断、取り返しのつかない大きなミスを呼ぶことになる。
 
自論のみが正論ではなく、自論とは違う意見にも耳を傾け、自論を鍛え直すということができないとそれもできない。ところが多くは、自分はそうしていると勘違いしている。
 
往々にして、人は、一度確信を持ってしまうと、なかなか人の考えや意見は受け入れられない。受け入れないだけでなく、違う意見に異論や批判ばかりを繰り返し、自論が受けいれられないと不満や不平を感じてしまう。もっと始末が悪いのは、自論が受け入れらないことだけでなく、評価されていないことそのものが固執した不満に変わる。
 
人には人の天分や持分というのもがある。いかに自分では自分はすぐれていると思っていても、実は、それほどすぐれていないのが自分というものだ。得意と思っていたものが、世界が広がれば、評価の対象にならないこともある。
 
それでも堂々と対立する側にぶつければいいのだが、小賢しく、あるいは弱さから、周囲や味方になってくれそうだと思える人たちに、身勝手な不満をこぼす。自分は味方だと思っている人も、そうなると不愉快にもなれば、いやな思いをする。
 
結果、そうした人たちの信頼もなくし、上辺だけの付き合いになっていく。かわいそうなことに、本人はそれに気づけないものだ。

自己愛が強く、自分への執着が強いとどうしてもそうなる。おそらくは、それまでの人生で、深く愛され、満たされた経験が希薄なのだろう。つまり、自尊感情が薄い。だから、自論が通ること、自論が通ることでえられる評価に飢えている。

いつからか、この国には、自己愛の強い人が増えた。本来、人というのは自己愛の塊。それがなければ、自己保全ができない。だから、必要なものでもある。しかし、自分をいとおしいと思う心がまっすぐに育っていない。育てられていない。
 
そのため、他者の思いを広く理解する、受け止めるという余裕がない。言葉足らずと無理解はお互いさま。そもそも、人は人をすべて理解することなどできはしない。その中で、互いを知ろうとしているに過ぎないのだ。

だから、限りがあることにいら立つのではなく、限りある中で、わずかでもつながっていることに感謝する…
そのまっすぐさがなければ、いつまでも泰然として事にあたるということもできはしない。まともな建設的で、前向きな議論もできない。