秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

保証はどこにもない

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おかしいことをおかしいといえない社会。まちがっていることをまちがっていると指摘できない世の中。道理にあわないことを道理にあわないと批評できない時代。
 
それは、いつの時代にも、いつの世にもあるものだ。
 
自由・平等・平和、そして博愛という民主主義の基本といわれるものは、民主主義というものが誕生してから、一度も完全に実現はしていない。
 
実現するどころか、民主主義という制度の仮面の下で、それらが奪われ、歪められ、否定され、抑圧されてきた時間の方が多い。

憲法が、達成された国や権力が守るべき規範ではないように、民主主義もそうあるべき理想の姿を基本としている。
 
つまり、自由・平等・平和・博愛が実現するために、常にそれを抑圧するもの、否定するものと闘い続けることで、初めて、民主主義は不完全でも民主主義足りえるのだ。

産業革命で生まれた児童労働や児童の権利の略奪に対して、その後、イギリス議会が児童福祉を確立されていったように。
 
黒人奴隷制度の廃止をヨーロッパにならって、アメリカ議会が議決したように。参政権、セクハラやDV法案によって、女性の人権保護を議決したように。
 
公民権運動によって、黒人差別だけでなく、あらゆる人種差別の撤廃運動が生まれ、人種や肌の色、年齢性別、貧富の差にかかわらず、基本的人権ばかりでなく、それに加えて、すべての人のQOL(生活の質向上)の権利が主張されるようになったように。
 
民主主義といいながら、それが満たされていない現実と人々が闘う中で、民主主義はその価値と意義を見出してこれたのだ。
 
そして、その闘いの中では、ときに暴力も生れ、言論で闘う人のいのちが奪われるということが起きた。既得権にしがみつく、無知な人々によって、権利と自由を主張する人々の社会的な立場や地位がはく奪されるという理不尽さもあった。

だが、それは、ひとえに、おかしいことをおかしいといえる社会、まちがっていることをまちがっていると指摘できる世の中、道理にあわないことを道理にあってないと批評できる時代を求めて、人々が実現したのだ。

世の中はそんなものさ。企業はそういうもんさ。組織人なら大人になれ。生活のためにはやむえない…etc だれがつくったかもわからない、世間の常識という言い訳を互いに持ちより、保身のために、自己保全のために、自らの生きる尊厳や誇りを少しずつ削り、現状を容認していく。

そこには、民主主義の死しかない。

大多数の時代に迎合する人々と大多数の時代の現実に目を向けない人とで、それはつくられていく。

昨日と今日、テレビ朝日開局55周年で放送された「オリンピックの身代金」。時代は昭和35年ながら、オリンピック開催にはしゃぎ、震災後の東北の現実からも、世界各地で起きている格差への、市民としての自由の攻防からも遠い、この時代のこの国の実態をまるで描くように映像化している。

しっかりした手当と、生活に届く施策と、メンタルにも及ぶ取り組みをしなければ、この主人公のような青年が、浮かれている7年後のこの国に現れないという保証はどこにもない。