秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

人間力

人間力…そういう言葉が正確であるかどうかは知らない。だが、人としての力、それを持つ人が少なくなてっていることは事実だ。
 
人としての力とは、「人は社会的動物である」といわれたギリシャの昔から、社会性を持つ人間のことを指している。
 
カン違いしては困る。ここでいう社会性とは、人とうまくやれるとか、容量よく生きるとか、社会的な事柄について詳しいとか、社会的な地位や名声、あるいは富を獲得できる力があるとか、そういうレベルの話ではない。

広く社会全体を視野に入れ、同時に、社会に生きるひとりひとりの生活意識や潜在的な願望、未来に期待しているものを見抜き、そのために発言し、行動し、そして協働できる人のことだ。
 
自分自身の試練に対しても、決してなにかを恨んだり、否定してたりせず、周囲の力を借りたり、寄せたりしながら、それを克服し、同時に、自分自身も他の人の困難に、力を注ぎ、場合よっては、周囲の力を結集できる、キーマンとなる人だ。

日本人は、それをたとえば、男気といったり、女の意地といった言い方をする。最近では、女性のそうした人に、男前といった言葉をほめ言葉として使う。

集団でなにかを生み出す舞台や映画、あるいは何かのパフォーマンスやイベント公演といったものも、あるいは会社のプロジェクトなどでも同じだろう。
 
人が集団で何事かを目指す、あるいは実現するというとき、そこには、決まって、足をひっぱる人間もいるが、同時に、人間力のある奴が数人いないとうまくいかない。

では、どうしてこうした人間力のある人が少なくなってしまったのか。小市民ばかりが多数を占める時代になってしまったのか。
 
いうまでもない。社会全体がそうした人を不要としたからだ。
 
先期のドラマで半沢直樹が大ヒットしたらしい。いつもいうが現実に存在しないからこそ、人はドラマの中に、コミックの中に、こうした人物がいてほしいという願望を映し出す。
 
当然ながら、半沢待望論がありながら、現実には、半沢は存在しない。待望しながら、だれも半沢になろうとしない。それは、なろうとした瞬間、社会から不要とされることをみながよく知っているからだ。
 
そんな社会で、人間力のある人が生れるはずも、育つはずもない。いつまでも、人々の期待の幻想。永遠の待望論として、そこにあるだけだ。

人間力が必要とされるのは、高度に確立した管理社会や市場優先の競争主義の社会ではない。わずかの取り分で諍い、妬み、わずかの優位性を競う愚かな人間の業が渦巻く世界でないと必要とされない。
 
ちまちましている。実にさかしなく、愚かでもある。だが、それをつまならいと切り捨てず、その泥の中に自らつかりながら、自分たちの生活を、地域を、社会を拓こうとする中にしか、その大切さが気づかれない。
 
ここには、その人間力を発揮しようという人たちがいる。
 
 
写真は、震災直後にいわきジャーナルの編集長Sさんに支援協力を要請され、以来の付き合いとなった、福島県内では屈指の米問屋、相馬屋の佐藤社長。震災で、仕入れた米は売り物にならない被害を受けた。
 
コメ取引は現金。仕入れた米の代金の回収は販売できてやっとできる。そこに風評が押し寄せた。いま、長野に精米所をつくり、少しでも福島の米への信頼性を回復しようと取り組んでいる。創業のときからあった、権益の壁。いまも壁と向き合い、だが、乞食僧を目指したときの人間力で、それを乗り越えようとしている。
 
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