秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

待つ

待つことは難しい。待つことはすべてを人にゆだねることだからだ。

私は生来、待つことが苦手な方だった。待つなら、自分から動く。それが物事を進める上で、一番いいことだと思っていた時期もある。

だが、物事がうまくいかない、行き詰るときというのは、その物事を早く進めようとする急いた気持ちがうまくかせていないことが、実は、多い。だから、そこでは、自分も息詰まる。

待つことは、たぶん、寛容さと同義なのだろう。また、泰然とあるということとも同義かもしれない。

だが、寛容さも泰然とある姿も、どこかに諦めが必要なことのように思う。強い願望や期待、相手や物事への強い執着。自分の思うように、人や物事を動かしたいという欲望…。

それらが、決して、不遜なものではなかったとしても、願望、期待、執着、欲望は、人を、物事を追い詰める。励みや向上心の糧となることもあるが、大方、自分を発端としたそれらは、相手にとっての発端ではないことが多い。

だから、そこには、諦め、諦観がいるのだ。ゆだねる。まかせる。ゆずる。あずける。

自分の力ではどうしようもないことが、それによって開けることがある。諦めるという言葉は、どこか無力で、無気力なようだが、自分の執着を断ち切ることは、決して人や物事を投げ出すことではない。

それによって、新しい対話が生まれることもあれば、対立を越えて、協働できることも発見できる。それができなかったとしても、行き詰まっている物事の背景や要因がみえてくることもあるだろう。

いったん、待つ。それは、けっして、待ち続けるということではない。いずれは、行動につながる。そのために待つのだ。自分の願望や期待、執着、欲望が、何かを目指した上のものであれば、きっと、物事は動くときがくる。

そう信じて、変化を待つ。そうしているうちに、自分自身が変わっていく。そして、新しい風が吹く。

要は、自分が変わるためにある行き詰まり、息詰まり。