秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

見ないつながり

毎年、恒例のことこだが、この時期、青山霊園を抜けると、朝から線香の香りが漂う。
 
参拝の家族や親族の方の列とも幾度も出くわす。霊園内の駐車場には、いつもはいない、交通整理の係員が複数、制服姿で立っている。
 
お盆と春秋のお彼岸。その時期は、普段は静かな霊園がにぎわう。

おそらく、大規模な霊園のあるところでは、似たような風景があると思う。

桜並木の芽吹き、新緑、そして、紅葉。それからの冬枯れ。折々に、沈丁花金木犀の心地よい香りが、また、季節の移ろいを伝える。
 
青山はことのほか、緑が多い。霊園から246を渡ると、明治神宮外苑が広がり、どんぐりの季節にはリスが木々の間を走りまわっている。

いま、墓地や埋葬場所に困る人がふえている。当然ながら、青山霊園のような都心に墓所を持つことは、もはやよほどの資産家でなければできない。
 
郊外や他県にしか、墓所を持てないのが普通だ。しかし、それも、立派な墓石を建てても、少子化で、血縁が続かず、だれも参る人のいない墓もある。
 
この数年は、それを危惧して、自分だけの墓所を持たず、集団埋葬、合葬の形式をとる中高年、高齢者が多い。ほぼそうした形式には永代供養がついている。

若い世代や子どもたちに、墓を守る、物理的、金銭的な負担をかけたくないという思いもあるだろ。

亡くなってしまえば、自然に帰るのだから、墓所などといったものは、無意味だと、じつは私は思っている。自宅に仏壇なり、ご宝前があれば、それで十分ではないと考えてしまう。
 
だが、多くの人はそうはいかない。地域や地方にいけば、なお、そうかもしれない。
 
ある意味、ふるさとというのは、墓所がある場所。そして、その墓所の周辺に親族、縁者がいる場所。つまり、共同体を成立させるひとつの大きな要素になっているからだ。
 
一か所にずっと暮らしたことのない、デラシネの私には、その切実さがないともいえる。だが、これだけ、少子化が進み、地域や社会の流動性が高くなれば、そうした地縁、血縁だけではない、新たなつながりによる共同体があってもいいのではないだろうか。

いま、都市部周辺で起きている合同埋葬形式は、ある意味、まったく直接縁のない人たちがひとつの団地に住むようなものでもあるのだ。

人はなにかにつながりたい。つなかっていたいと思う。だか、それはこれまでのような目に見える形でなくてもいいかもしれない。団地だって、長い歳月の中では、古びていく。場合にって、都市開発で取り壊されることもあるだろう。

墓につながりの拠点を求めるのではなく、もっと、見えないなにかにつながりの拠点を持ちたい。私は、若い頃から、そう思い続けている。