南方熊楠ならいうだろう
ああ、いい色に変わってきたな…と思い、周囲の落ち葉をみていると、生垣の上にきれいに、丁寧に並べられている落ち葉に目がとまった。
色合いのいいものをなんとなく、色分けするようにまとめて置いてある。10枚ひとつほどにして、整然と8つほどの束にしてあった。
何という心遣いだろうと思った。
どうしてそのようなことをしたのか。それはわらかない。だが、いつも私がこの時期、青山霊園を抜ける度に、落ち葉の色合いの美しさに癒され、自然のもつ絵画の世界に感動するように、こうして色合いのいい落ち葉ばかりを集めて、並べる人がいた…
なにかの執着なのかもしれない。だが、そこには、こんな美しい落ち葉が、吐き捨てられるのがもったいないという思いが形にしてあるような気がしたのだ。
私たちは、この時期、美しい紅葉や自然の景観を見たいと思い、足を運ぶだろう。だが、秋に限らず、そうした自然のつくる絵画の世界をめでることはあっても、落ち葉ひとつひとつを手にしたことがどれほどあるだろうか。
美しい海と風の中にいて、だが、その海の特徴や成り立ち、そこで生活してきた人々のことやそこに生きる魚や生態にじかにふれたことがどれくらいあるだろう。
壮観さ、雄大さではなく、それらをつくる、いわば森の粘菌やコケ、海の微生物やにおいといったものをじかに感じ、よりまじかに、自然の微細な世界にふれる…。
それなくして、本当の感動や喜びはないのではないかと思う。
眺めているだけでは、物事の本質も、そこにある大事なものも見えない。よりまじかに、その眺めている世界深く、足を踏み込まなければ、本当のことは、なにひとつ見えない。
見えるために、足を踏みいれるとは、現実を生きるということだ。現実を生きる人間や現実にある自然の恩恵の重みを知ることだ。
現実を見ず、知らず、壮観な風景をめでるだけのように、盤上の駒のようには、人は動けない。遊興を挟めば、人の心が癒えるわけでも、つながりが深くなるわけでも、現実を知り。越えられるわけでもない。
なにかの執着なのかもしれない。だが、そこには、こんな美しい落ち葉が、吐き捨てられるのがもったいないという思いが形にしてあるような気がしたのだ。
私たちは、この時期、美しい紅葉や自然の景観を見たいと思い、足を運ぶだろう。だが、秋に限らず、そうした自然のつくる絵画の世界をめでることはあっても、落ち葉ひとつひとつを手にしたことがどれほどあるだろうか。
美しい海と風の中にいて、だが、その海の特徴や成り立ち、そこで生活してきた人々のことやそこに生きる魚や生態にじかにふれたことがどれくらいあるだろう。
壮観さ、雄大さではなく、それらをつくる、いわば森の粘菌やコケ、海の微生物やにおいといったものをじかに感じ、よりまじかに、自然の微細な世界にふれる…。
それなくして、本当の感動や喜びはないのではないかと思う。
眺めているだけでは、物事の本質も、そこにある大事なものも見えない。よりまじかに、その眺めている世界深く、足を踏み込まなければ、本当のことは、なにひとつ見えない。
見えるために、足を踏みいれるとは、現実を生きるということだ。現実を生きる人間や現実にある自然の恩恵の重みを知ることだ。
現実を見ず、知らず、壮観な風景をめでるだけのように、盤上の駒のようには、人は動けない。遊興を挟めば、人の心が癒えるわけでも、つながりが深くなるわけでも、現実を知り。越えられるわけでもない。
宮澤賢治の言葉ではないが、テニスをしながら、大学の先生から余暇のように学ぶ学問よりも、ゴルフや宴席がなければできないような仕事からではなく、毎日、額に汗し、天気におろおろしながら、土や生活にまみれた人たちの中から、本当の学問や仕事は生まれるのだ。
壮観で雄大な風景を目にしたら、足元に落ちている一枚の落ち葉を拾ってみたまえ。そこにこそ、その風景を支えている本当の力がみえる。いや。それを生んでいる地球がみえる。そして、きっと宇宙がみえる。
壮観で雄大な風景を目にしたら、足元に落ちている一枚の落ち葉を拾ってみたまえ。そこにこそ、その風景を支えている本当の力がみえる。いや。それを生んでいる地球がみえる。そして、きっと宇宙がみえる。