秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

親戚づくり

つながりと縁を感じたとき、人はどうしてもこうも、ありがたく、あたたかく、うれしい気持ちになるのだろう。
 
ひとつには、いまという時代、都会だけでなく、地方にあってさえ、人と人のつながりや縁というのは十全ではないということがある。つながりが縁を実感できることが少ない分だけ、それを強く感じられるものや出来事に人は乾いている。
 
また同時に、日々、密接につながっているような暮らしぶりの中では、いまここにこうしてあることのつながりや縁を改めて新鮮にとらえ直すという機会が日常の時間の中で埋もれてしまっているということもあるだろう。
 
つまり、押しなべて、人と人がつながりを実感し、何かの縁で結ばれている不思議やありがたさを感じられる場面が生活の中で希薄になっているといことだ。
 
そうしたことを改めて考えさせてくれたのが、東日本大震災であり、その後の復興や再生への取り組みだった。だが、それでも地域が失われて、地域そのものの地域力が弱くなっていたところでは、感謝や思いはあっても、それを取り返すことは簡単ではないし、取り返すことのできない地域も出ている。

だが、つながりや縁の希薄さは、格段いまに始まったことではない。もう何十年も前から、それは始まっていたし、そこに家庭、親子の問題、地域や社会の課題、そして、国のあり方の未来といったものは存在していた。
 
いまオレは福島のいろいろな地域を回っている。同時に、そこで知り合った人たちと東京の復興イベントで度々再会している。まるでふるさとから親戚が出てきているかのように…
 
つながりや縁を地域という枠組みや血縁や地縁に求める時代は終わった…とオレはずいぶん前から確信していた。土着性やリアル地域性にこだわった中でのつながりと縁が希薄化し、地域力の低下とともに、破たんしていってることを感じていたからだ。

血縁がなくても、地縁がなくても、人縁はいつでも、どこもでつくれる。その人縁をもとに、地域を知ることもできれば、互いの不足を補う知恵を生み出すこともできる。もっといえば、失われた血縁や地縁を埋めることさえ、できるのだ。

福島のことをやらせてもらって、つくづく思うのは、新しい親戚がどんどんつくられている現実だ。あのおじさん、あのおばさん、あのにいちゃん、あのねぇちゃん…いままでまったく出会うこともなかったであろう人たちとのつながりと縁。

リアル血縁でもなく、リアル地縁でもないからこそ、言えることもあれば、素直に共感できることもある…人とは極端な濃密さではなく、そうした隙間とわずかな距離があった方がいい関係を築けるときの方が実は多い。
 
今日も錦糸町で親戚に会ってきたら、また別の親戚たちと遭遇していた。この出会いがオレの背中を押してくている。

自分ひとり
ではできなことも、だれががなにかの出会いや思いがあれば、やれる。