秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

花に恥をかかせてはいけない

花屋さんには、こだわりがある。
 
若い頃はそれほど気にとめていなかったが、どのような花を贈るかは、その贈る人の人柄やセンスが読まれる。それを含めて花を選んで、造作してくれる花屋さんは意外に少ない。

30代の後半くらいから、ただ、花を贈ればよいのではなく、贈る側の思いやセンスが込められていないといけないと思うようになった。
 
以来、気に入った花屋さんにしか、贈り花は頼んでいない。
 
ひとつには、映画や舞台の公演祝、結婚祝、葬儀の弔花といったように、花を贈る機会が社会的な立場や人間関係の広がりで歳とともに多くなっていることがある。
 
そのため、衆目にさらされることもあるし、受け取った側の気持ちをよくするものであってほしいと願うようになった。いい贈り花には、なぜか、その力がある。

人に贈る花は歳ともに増えているが、自分のために花を買う男性は、そうした趣味のある人か、それを生活の常識としている人くらいだろう。

私が花を部屋に飾るといったら、せいぜい、贔屓にしている花屋さんのポイントをためて、その交換で花をもらい、飾るくらいの機会しかない。

それでも、事務所に花を飾ると、部屋全体がどこか明るく、華やぐ。いいなと思う。
なのに、花代はつかわず、酒代をつかっているw

昔、通っていた店で、毎日、カウンター奥の花台のスペースに、見事な花を飾る店があった。常連で通っていると、次第にそこに生けられた花が楽しみになっていく。
人と飲み始めれば、花のことなど忘れているのだが、店に入った瞬間やひとり、思いにふけって飲んでいるとき、その花は貴重だった。

うちのおふくろは、豊かではない警察官の家で、ことがあると花を飾った。ご宝前に花を絶やさないようにしていたこともある。
 
子ども頃、おふくろが花の水を変えながら、くたびれた花をみて、それは間引いて捨てようといったことがある。しおれてはいたが、まだ、捨てるに忍びない程度のくたびれ方だった。
 
それをいうと、母は、「花に恥をかかせてはいけない」といった…。

子ども心にも、どきりとした。そして、確かにそうだと納得した。花は美しくあって人目にさらされてこそ、本望。それ以上の姿をさらさせることは、花に恥をかかせる。それは、人においてもそうかもしれない…子ども心にも、そう感じたのをいまも覚えている。

 
世阿弥がいうように、「時分の花」というのもある。その時、その折々で、花の姿もいろいろあっていいというものだ。その移ろいは、移ろいなりに、味わいがある。演技者には、それを生きよと、「花伝書」の中で伝えている。

しかし、それすらも立ちいかなくなれば、そっと間引いてやるのが、本当のやさしさなのかもしれない。あるいは、間引かれる前に、自ら身を消すのが美というものかもしれない。

この間、花屋さんからもらった花もいくつか持たなくなり始めている。花に恥をかかせてはいけないから、元気な真紅のバラだけは残すことにしよう。