秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

都市の凋落

都市的なものというのは、現実は別にして、人々にとって魅力的に見える。
 
なぜか。それは灯りに満ち、人に溢れ、にぎわいと華やかさと、先進性と洗練がみなぎているからではない。
 
そこは、勝者の街だからだ。そこにいることは、ほぼ勝者として、いることだからだ。
 
たとえば、マンハッタンを例にしてみよう。ご存じのとおり、そこでは、国民が負担する消費税とは別に、マンハッタン税がある。政令指定都市に課税される特別区民税とは別に、一般消費財に消費税とは別に特区としての税が加算される。
 
レストランやホテルなど、サービスを受ける場合には、そこにさらに、チップが加わる。これは貧者救済のシステム、格差を当然とする社会の礼儀のようなもの。

当然ながら、地価は高く、賃貸料の価格や不動産物件の購入には、都市ならでの付加価値がつき、一般のそれより、はるかに高い。

地方のレストランやドラッグストアでは考えられない金額を払わなければ、サンドイッチひとつ買えはしない。マンハッタン内に住むとなると、賃料も購入費も高いが、まともなマンションであれば、コンシェルジュもつく。その管理費(人件費)も高い。

つまり、考えられないコストをかけなければ、マンハッタンに住んだり、そこで仕事をすることはできない。

だから、多くの人は、ブロンクスやクィーンに住み、そこから川を渡ってマンハッタンに働きにくる。あるいは、住まいの近い場所で仕事に就く。
 
交通費や駐車場費、ガソリン代の負担を感じない人は、ニュージャージーの高級住宅地から運転手付の車か、高級車で通う。

当然ながら、それだけの生活を支える収入のある人々は、オペラや現代美術、演劇など、アートに時間とお金を費やすこともできる。また、ファッションにも、インテリアにも、生活雑貨にも、食料品の質にもこだわりを持つことができる。
 
だから、そこには先鋭的であったり、魅力的なアートや食文化が花開く。開かないまでも最大の消費地となる。消費地だからこそ、エネルギー資源は都市に湯水のように注がれる。
 
そのようにして、都市は、富裕層や成金層によって、結果的に、灯りに満ち、人に溢れ、にぎわいと華やかさと、先進性と洗練がみなぎているに過ぎないのだ。

つまり、都市的なるものを目指すということ、都市的なるものに身を委ね、都市的気分の中にいたいということは、勝者を目指すことだ。そして、勝者であるためには、なにかを切り捨て、なにかを踏みにじり、なにかを敗者にし続けることだ。

だが、その犠牲の上に、自分たちの生活が成立しているという自覚は人々にない。
自分の能力と才覚でここに住める自分になったのだから、だれの助けも借りてはいないという理屈になる。
 
その驕りは、都市の疲弊を招く。生産や資源の拠点を持たない都市は、じつは、外見の華やかさとは真逆に、じつに脆く、弱い。
 
そしてまた、そうした都市を目指す地方も、地域も、じつは、その足腰は脆弱だ。何事か創造的に都市に喰いこもうとしながら、都市をあてにする精神は、結果的に、都市の持つ、脆さと同伴することにしかならない。

やるべきは、地域内での経済と資源の循環システムをつくることだ。それで成立する地域の規模を底力で生きることだ。その力によって、都市と対等の関係で、つながりを再構築することだ。

その方向を模索しない地域、地方は、都市の凋落と共に、崩壊する。
 
これ、古くは古代ローマ帝国もしかり、スペイン、ポルトガルの凋落しかり、中東しかり。一世を風靡した都市は、地域、地方を食い潰しながら、国力そのものを弱めていく。