秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

アスファルトをはがして種を撒く

大学4年のとき、友人のひとりが言い出して、大学西門の早稲田通りに面する蕎麦屋の二階で勉強会をやることになった。

 

当時、文学部の教養は2年。そこで出会い、専攻に分かれてからも何かとつるんでいた仲間6人で、それぞれが専攻に進んで学んだとこ、研鑽を積んだ実績を発表し、意見交換しながら、文集にまとめようというのだ。

いまにして思えば、じつにまじめな学生たちだ(笑)。だが、思い返せば、ぼくらは集まる度に、政治・経済・社会問題や文学・哲学・文化芸術について、いつも熱い議論ばかりしていた気がする。 いわば、その議論に後れを取らないために、アルバイトの傍ら、本を読み漁り、専門分野での学びやぼくで言えば、演劇に邁進していたようなものだった。

 

そして、結果的にそれぞれが専攻で学んだことの延長にその後の人生を歩んでいった。

その頃、丁度、第二次オイルショックの頃で、ぼくは英文学や演劇の話ではなく、原発化石燃料に依存しない社会のあり方について発表し、後に広告代理店に就職した友人と議論になったことを覚えている。

 

過剰に地球環境を阻害しない道を探るべきだというぼくの考えに、友人は、「経済発展ためには、やむえないことではないか。オレは暮らしの質を下げることはできない」という趣旨のことを言って反論した。「生活の質は物の豊かさだけで決まるのか? 発展成長とは何をしてそういうのか、もっと別の視点からとらえ直すべきだ」ぼくはそう返した。

いくつかのやり取りの後、「都市の暮らしで、食の流通にもエネルギーがいる。それが使えなくなったら、お前はどうするんだ」という彼に、ぼくは、「そのときは、都会のアスファルトをはがし、土を耕すのさ」というと、全員爆笑した。ぼくは大真面目だった。

宮澤賢治を学んでいたこともある。だが、第一次エコロジー運動の残した課題は、まったく解決しないままなのを第二次オイルショックは世界に突き付けているような気がしていたのだ。

このままではいずれすべてが立ちいかなくなる。その危機感だけは仲間の誰よりも当時持っていたと思う。それはいまにして思えば、今日の課題でもある資本主義の限界を乗り越えるためには、脱成長しかないといういまの考え方の起点になっている。

脱成長といっても、アスファルトをはがして種を撒くということではない(笑)。それは、議論展開で勝利するための極端な譬えだ。だが、都市に農地をつくることは不可能なことではない。

現実に、マンハッタンの古いビルを買い取り、その屋上を有機栽培の農場にして事業化し、ビジネスモデルが誕生している。古いビルのオフィスは、ベンチャー企業NPONGOなど市民運動団体が廉価に使用できるパフォーマンススペースになっている。

これを友人の港区議にも話し、港区条例として天空農地、太陽光発電をゼネコンや開発企業、ビルオーナーに義務づけようと提案している。

脱成長とは、都会とはこういうもの、地方とはこういうものといったこれまでの枠組みや固定観念から自由になり、環境にこれ以上付加を掛けない、新たな生産集団やエネルギー消費に代替えさせない流通システム、循環型の消費システムを創造するということだ。

地域・地方の活力回復をスモールDXで創造し、これを都会の消費者と結ぶことだ。そこは都市生活者のふるさととしての機能も持つ。消費の循環と資源の循環を大規模展開ではなく、小規模なスモールスマートシティ化し、ネットワークで結ぶと、これまでのような自然搾取型の資本主義から市民協働社会主義に形を変えることができる。

それは、現在のグローバル経済や富の偏重を変え、普通の生活がだれにでも保証される社会への変容につながるはずだ。いま、デジタル庁が問題になっているが、オープンデータの活用も、スモールスマートシティにおける新しい人の協働作業、協働組合によって、より活用の実が生まれる。

東京五輪などという終わりつつある資本主義の幻影を求めるイベントに国税血税を費やすくらいなら、コロナ禍後の未来のために、ぼくらは、アスファルトをはがして種を撒く。そこに税を投入し、税を市民に奪還する。