秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

まず、笑うことだ

人が笑う姿、顔は気持ちがいい。

だが、繕った笑顔ややむなく見せる笑顔は決して気持ちいいものではない。
 
心の中にどのような悩みがあっても、やむなく笑顔を見せなくてはいけない場合であっても、その奥にある課題や苦労をとりあえず置いて、しっかり心から笑った笑顔でなくては、人に心地よさは与えない。

もちろん。ただ、無邪気に、おいしいものを食べて喜ぶ笑顔、おいしいものを飲んだとき思わずこぼれる笑顔、大好きな人に会えて見せる笑顔、なにかいいことがあって、素直にこぼれる笑顔、いとおしい人やものにふれたときにふと溢れる笑顔…それに勝るものはない。

人を悪しざまにいって、笑いのネタにするような笑い、エスプリのない異性を貶めるような下ネタの笑い、だれかを小馬鹿にしたような笑い…というのは、笑顔ではなく、悪意と汚れに満ちた、笑みに過ぎない。
 
血のつながった子どもや孫の無心な笑顔に、素直に癒され、喜びながら。血のつながっていない子どもや幼子でも、それを見ると思えず笑いを誘われながら。

あるいは、少年、少女たちの底ぬけな笑い声に若さの輝きや平和を感じながら。

だが、その笑いたちが、素直な心の表現だから、こちらに喜びや癒し、平穏を与えてくれていることを忘れる。自分もそうあろうと心がけることをしない。

生物学、脳科学で、年齢を重ねるほどに経験値が高くなると、新鮮な感動が少なくなり、脳の働きの柔軟性が失われるといわれている。感動を多く持つ、心の振幅を大事にすることは、脳の若さ、自由さを保つ上で大切なことなのだ。

笑いもその新鮮な感動。ささいな事への喜びがあって生まれる。
 
いまはどんなに苦しくても、いまはどんなにつらくても、その苦しさ、つらさを感じ、煩悶する心は、まだ次への可能性があるということなのだ。

繊細であると、敏感であること、謙虚であること、反省ができること…そこに、本当の笑いは存在する。

笑えない人がいたら、ささいな、それでいて良質のやさしい笑いを導く話から始めればいい。そして、まず、自分から笑うことだ。裁くより、過度の憐憫や同情をするより、わかったようなことを説諭するより、まず、笑うことだ。

そうやって、実は、自分も親から周囲から、あるいは子どもたちから、救いの手をもらっている。