秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

生活範囲

人の生活範囲というのは、じつはそう広くない。というより、時代推移とともに、狭くなっている。

いやいや、交通手段の高度化によって、それは広くなっているのではないかと反論する人もいるだろう。
 
だが、現実には、狭くなっている。
 
交通手段の高度化によって広くなったと思えるのは、ビジネスや観光といった部分においてであって、決して、それが生活範囲、つまり、日常的な生活空間の拡大にはつながっていない。

生活のなにがしかの拠点といえるものがそこにあり、かつ、人的つながりの深さが多数あり、生活と結びつく、地域情報や行政関連のサービス情報とのコンタクトがあるという状況がないと、生活範囲の拡大にはならない。
 
活動範囲の拡大と生活範囲の拡大はイコールではないのだ。

もちろん、活動範囲の拡大がなければ、生活範囲の拡大もない。だが、多くの活動範囲の拡大は、地元のごく普通の生活者や地元の小さな芸能文化、あるいは食まで届かないのが現実。
 
よくある、せっかく、ある場所に行きながら、地元のだれとも話をしない。あるいは、地元の食や芸能、その他、なにげない日常にふれることもせず、ありがちな名所旧跡や自然環境だけにふれて、それで終わるというケースがほとんどなのだ。

それでわかったようにいう人も少なくない。

狭くしているのは、ひとつには、インターネットや携帯端末の普及がある。その場所へいかなくても、あるいは、人的つながりの深さがつくられるまで待たなくても、時間と距離を短縮し、あたかも、それがすでにあるように装うことができる。

わかった気になることもできる。だが、違う。

生活というのは、日常だ。日常の共有と日常におけるつながりと連携が育てられなくてはならない。それがないものは、居候にすぎなく、お客にすぎない。それでは、生活の範囲は広がらない。

生活範囲の狭さは、いま、地域への関心の希薄さ、他者への無関心へとつながっている。同時に、それはコミュニケ―ションからの撤退や拒否といったことにまでなっている。

狭くなった生活範囲は逆に、その分、他者との距離や関係を詰めるのにいい。だが、つながりへの方向ではなく、狭くなった分、拒絶や逃避へと人々を導いている。

これは、動物学的にも、生物学的にいっても、ある意味当然なことで、他者との距離が濃密になることを避ける生体反応のひとつなのだ。ある距離や空間の広がりがないと、人も動物も、安心感をえられない。
 
だからこそ、狭くなった生活範囲に気づき、それをどう広げるかを意識しなくてはいけない時代、社会に私たちは置かれている。

なおざりな範囲の拡大でもなく、わかったような気になった拡大でもなく、その顔、その声、その眼差し。あるいは、そのだれも見向きもしない風景、これといった名物でもない普段の食生活や暮らし…
 
そこへ目を向けられる、活動ではなく、生活の拡大へ歩み出さなくてはいけない。

それが、行き詰る日常を変える、ひとつの道なのだ。