秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

脳の使い方

昨夜、NHKスペシャルで立花隆の「死ぬとき心はどうなるのか」をやっていた。

ジャーナリストとして立花隆に、個人的に関心はない。立花隆に限らないが、どこか、強引に持論に引き込もうとするジャーナリストの癖のようなものが好みではないからだ。
 
ロッキード事件の報道やロスの保険金殺害事件のときの偏狭な取材姿勢が気になっている。
 
死後の世界を見たという体験は、これまで立花隆が取材し続けている対象のひとつ。

その中で、幽体離脱の人間の感覚の誤謬について、取材していた。これまでにも死後の世界と幽体離脱の科学的反論として何度か取材される、スウェーデンの科学研究所の取材だ。

視覚で認識している、人形の足に刺激を与えながら、本人の足にも同じ刺激を与え続けると、そのうち、人形が自分の身体であるかのような錯覚に陥り、やがて、身体そのものと誤謬する。

これは、心と身体が常に一体のようでいて、じつは、ある錯覚の構図に置かれると、脳はあたかもそれが現実、真実のように誤解する性質を持つ…ということの実験証明にもなっている。
 
私はいつもいうが、脳が認識する世界、脳が記憶するデータ、それらにはどこにも信憑性がない。脳は自己保全のために、常に、脳=自分にとって都合のいいようにしか機能しない。

今回おもしろかったのは、イメージを視覚的に持つことができ、かつ、それをもとに創造、クリーティブなものを生み出す力がある分、人の脳は、宿命的に、この世界認識の誤謬と共にあるという海外の研究者の指摘だった。

つまり、体験していないことや見聞きしただけのことでも、自己の体験と誤認識することができるというもの。

わかったような気になるという、人間の傲慢さもそこにあるかもしれない。誤解やウソを重ねるうちに、その誤解の誤り、ウソのごまかしに気づけなくなるというのもそれだ。反省の拒絶は、自己の正当化から生まれることから考えても頷ける。

人は、他者のことを完全に理解することはできない。いかに深い同情や憐憫を抱いても、共感のつながりが持てたとしても、二つの同一図形のように重ねたら、合致するものではない。

だが、その相違、相似が面白いのだ。
 
また、この国に限らず、いまの政権や政治にかかわる人の世界認識の仕方、権力や富を持つ人々の他者認識の仕方の狭さ、生活者のところまで見ていないくせに、データや官僚の報告、わずかばかりの時間の現地視察などでわかったように思うのも、こうした、保身や保全の脳の働きがある。
 
組織や制度の中で、それを守るべきものと思うと、それを越えて新しい組織や制度を生み出す脳の働きが疎外される。

もっと生活に下ろして考えれば、人の言うことを聞かない、人の真実を見ようとせず、自己の記憶と体験からしか、人を判断しないというのもそれだろう。
 
思い込みや決めつけというのは、なにかを守ろうとしているか、あるいは、過去のなにかの記憶のデータの書き換えを怖れているからだ。

人はどのような人でも、生まれながらにいろいろな使命を担っている。担っているからこの世に生を受けていると私は思う。
 
ならば、この脳の身勝手さを自分で俯瞰し、自己を対象化し、自分という存在はじつは不確かな記憶からしかつくられていないと謙虚になれば、どんなにささやかなことでも、自分を中心にせず、他者を中心にした世界を考えられるはずだ。
 
そのときこそ、人が宿命的に世界を誤謬する脳が人や世界を幸せにするためのイメージと創造を生み出すことができる。

それこそ、人の脳のあるべき使い方。