秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

ルーツ

アレックス・ヘイリー原作の小説「Roots」という黒人の歴史と差別を描いたアメリカのテレビドラマが大ヒットしたことがある。

少年クンタ・キンテを祖とする、黒人三代に亙る奴隷の歴史を通じて、差別や苦難の人生の歩みだけではなく、自分たち黒人の原点への誇り、矜持を回復するというドラマだった。
 
私たちの社会は、高度成長期以後、消費社会、成熟社会、そして現在の低成長社会と欧米先進国が歩んだ道を同じように歩みながら、他の先進国と同じように、過剰流動性と多様性の社会を生きている。
 
自分がどこのなにものかという所在や存在の証明が、流動性によってじつに曖昧になり、同時に、様々な生き方や選択の広がりの中で、家庭はもとより、地域社会、国家においてさえ、家族として、民族として、国民として、あるいは市町村民としての共通の基盤や共同性を喪失し続けている。

自分がなにものなのかのルーツが喪失し、行動においても精神においても依拠するものを失いつつあるのだ。

戦前懐古主義者や現実の流動性と多様性の見えない人々は、こうしたときに、国民的合意を表層的な形式に求める。国歌や国旗といったシンボルへの執着。靖国参拝もそうだ。

国や地域というものではなくても、組織への忠誠や帰属意識の向上、つまり、縛りつけとお仕着せを共有したがる。

現実が一枚岩ではなくなっているからだ。
 
だが、それは形式主義、ご都合主義と偏狭なナショナリズムや世界的視野の欠落を生む。

いま必要なのは、これまでの企業、組織、地域、社会、国家の枠組みにおいてしか、成立しなかった、慣例的で、因習的なルーツや制度的ルーツだけではなく、人々の根拠となりえる新しいルーツの枠組みなのだ。

私はMOVEを設立したときからいい続けているが、行政区域、広域行政区域、あるいは国境という政治制度、行政制度の枠組みから自由にならなければ、かつてのような共同体意識や連帯は創造できない。
 
欠落した地域のなにか、不足した社会のなにか、それを地域内や流動と多様性が自明となった社会だけで賄い、不足なく地域、社会を成立させることは困難な時代に入っている。
 
それは、地域、社会だけではなく、国家そのものが、そうなのだ。

制度は常に、エリア主義やなんからの既得権維持に走るようにできている。だから、制度そのものをより解放し、柔軟性を生み、現実の流動性と多様性に対応できる仕組みに変えていかなくてはいけない。

その既存の制度から離れたところに、新しい共同体の枠組みの片りんが見えてくるのだ。

ルーツへの回帰や探究の羨望は、いま逆に人々の潜在的欲求として強くなっている。自分たちの地域の原点、あるいは、自分という人間の原点。それをたどり、求めることは決して、ダサいことでも、古めかしいことでもない。
 
なぜなら、そこからしか、他との本当の意味での連携。慣例や因習、制度をこえた、新しい共同体の道すじをみつけることはできないからだ。
 
自らの誇りや矜持を持とう、つかもうとする人には、同じようにそう願う人たちとの連携が必ず生まれる。