秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

何人いるのだろう

濃密な人間関係は人を傷つける…という一面を持っている。人にさびしい人は、どこかで濃密さの中にある安心や深いつながりを心地よいと思う。
 
だが、それが牙をむくと、男女の間であれば、ストーカーやDVといったことにもなれば、親子関係であれば、家庭内暴力やひきこもり、自傷といったことにもつながっていく。いずれも双方の依存関係が生んでいる。
 
実は、人というのは濃密な距離と関係を得意とはしていない。濃密さが生む被害や悲劇に、実は、多くの人々は気づいている。
 
昨年、尼崎で起きた疑似家族連続殺人事件も、濃密さのない家族関係を生きるひとりが何かで角田美代子がつくる疑似家族関係の中にまきこまれ、実家の家族までを巻き込んだ事件に発展していった。
 
いまの家族というもののつながりの脆弱さ、希薄さ、同時に、地域や周囲の眼の弱さ、つまり近所付き合いの希薄さといったものを象徴するのように起きている。
 
血縁という濃密さもいやだが、それでありながら、他者よりそれが希薄であれば、それを疑似的なもので埋めてもいい…そう思うのは自然のなりゆきだ。
 
だが、それを利用して、まるで宗教のように、人々は角田の存在感と威圧に次々に屈し、実の家族を殺すという殺人という犯罪まで犯してしまった。これは、園子温監督の埼玉愛犬家連続殺人事件を題材にした「冷たい熱帯魚」で扱われたテーマだ。
 
こうした犯罪事例は極端ではあるが、この数年、経済的な事情もあって、シェアハウスが若い人たちの間に広がっている。本来の家族関係という濃密さよりも、他者性を互いに共有する中で、疑似的なものでそれを埋めることの方が楽だということもあってのことだ。

海外では決してめずらしくない、この姿はこれからも増えていくだろう。だが、そこにおいても、次第に濃密さが生まれてしまうと、その枠組みから脱することは難しくなっていくのではないかと思う。
 
海外では個人主義が徹底している分、共にいるための距離のあり方をあらかじめ、契約として取り決める。つまりルールを設ける場合が多い。それは精神的に互いが拘束されないための個の自由を確保するためだ。言い換えれば、他者性を維持し続ける、冷静さ、冷徹さを計算入れている。
 
それがないと、濃密な関係に転じて、本来人がそれを苦手としており、そこから生まれる依存や帰属の習慣化、義務化が生まれてしまうことを知り、嫌うからなのだ。

だが、日本人にはこの契約の概念がない。知らず知らずのうちに、ある空間と人的関係がつくる世界の常識やつながりが優先されるようになっていく。果ては、その人の生き方や生活の方向性までに関与してくる。
 
しかし、人にさびしい人は、それがかえって心地よい。どうするかを深く、迷わなくてもいいし、ある空間と人的関係にゆだねていれば、自ら判断し、行動することもしなくていい。そこにいる限り、傷ついたり、面倒だったりする、別の濃密さから撤退することができるからだ。
 
言い方は適切ではないかもしれないが、いじめる側の枠組みにいれば、クラスの中で安全でいられる…という構造に似ている。そこから出てしまうと自分がいじめられる側になるかもしれない。つまり、傷つくかもしれない。それが外に対する撤退を生み、内に対する依存を生む。

被災地で起きている、原発避難住民と地元生活者の軋轢も、これまであった距離が極端に近くなってしまったことと無縁ではない。また、仮設住宅の中の緊張に高齢者が疲れていくのも、当然あるべき生活の距離が近すぎるということもある。
 
人は、どのような場にあっても、一定の距離と冷静な関係性の中にいる努力をしなと、知らない間に、触れない方がいい深淵をのぞきこんでしまう。
 
それをさせないためには、どうしても経済の安定と未来への挑戦が安心してできる環境だ。いま参議院選挙真っただ中、この人の生理を理解できている政治家は何人いるのだろう。