これでいいのか
演劇が、映画が、テレビが、つまらない。つまらないといいながら、つまらなくつくっている人たちと同じように、つまらない演劇、つまらない映画、つまらないテレビが溢れていく。
ある人は、いやそんなにつまらなくないというだろう。また、ある人は、いやいやいい作品だともいうかもしれない。
そして、最後には、それぞれの好みや嗜好があるのだから、仕方ないじゃないかと「これでいいのか?」を問おうとしない。
あるいは、客が集まって、視聴率がよくて、興行がいいのだから、いいじゃないか、いい作品といえるじゃないかと経済効果だけでそう判断する人も多い。
物事の基準を持たない人たちがつくり、物事の基準を持たない人たちがそれを評価し、物事の基準を知らない人が経済と情報とポピュリズムに流される…
もちろん。そんな中でも、「これでいいのか?」を真摯に、場合によって、これでいいのかの「これで」をパロディにして、少しでもいい作品をと取り組んでいる人たちはいる。だが、それが大きく話題にされたり、取り上げられりすることは少なくなっている。
テレビドラマやドキュメンタリー、最近ではバラエティでも、NHKがひとり勝ちといわれて久しい。
あまり知られていないが、内村がやっているコント番組「LIFE」は、挑戦的だ。
もちろん。そんな中でも、「これでいいのか?」を真摯に、場合によって、これでいいのかの「これで」をパロディにして、少しでもいい作品をと取り組んでいる人たちはいる。だが、それが大きく話題にされたり、取り上げられりすることは少なくなっている。
テレビドラマやドキュメンタリー、最近ではバラエティでも、NHKがひとり勝ちといわれて久しい。
あまり知られていないが、内村がやっているコント番組「LIFE」は、挑戦的だ。
おバカな国会議員が、NHK会長の代弁者になって、「民報で流すようなバラエティ番組があっていいのか、そんなもの必要ない」といえば、コントに超頭のお堅いNHKプロデューサーを登場させる。30年前はいたかもしれないような人物を主人公にしてパロディで笑わせている=批評しているのだ。
これをNHK自身がやっていることに深い意味がある。
演劇人、映画人、小説家であれ、表現者といわれる人は、この感性を持たなくてはいけないし、無くしてはいけない。
昨夕の鈴木忠志の講演会。若い未熟な学生にいいたかったのはそれだ。
少し難しい言い方だが、表現というのは、その作品そのものに、批評性がなくてはいけない。作品に耽溺するのはではなく、つくり手がそれを対象化できなくてはいけない。それができないと、作品世界は急激に狭くなる。狭くなるということは、普遍的ではなくなるということだ。
いい作品というのは、どこかにそれがある。それがあるから、ある地域だけではなく、ある国だけではなく、世界のだれが見ても、あるいは読んでも共感を呼ぶのだ。
演劇の世界が自分の生活の範囲、地域社会の範囲、あるいは、日本という国の範囲を出ない。出ようとしない。別に海外で公演すればいいといっているのではない。自分たちのつくる作品が自分たちの世界の中だけで自己完結するような作品をつくっていては、いい作品はつくれない…といっているのだ。
そこに必要なのは、批評性だ。批評性を失わないためには、自分たちの作品は「これでいいのか」に始まり、自分たちの社会は「これでいいのか」につながり、そして、自分たちの世界は「これでいいのか」に広がる。
大仰に世界を語れといってるのではない。政治屋や包帯のようなウソをつく経済学者のように世界を語れといっているのではない。
そこに必要なのは、批評性だ。批評性を失わないためには、自分たちの作品は「これでいいのか」に始まり、自分たちの社会は「これでいいのか」につながり、そして、自分たちの世界は「これでいいのか」に広がる。
大仰に世界を語れといってるのではない。政治屋や包帯のようなウソをつく経済学者のように世界を語れといっているのではない。
自分に、自分の生活に、そして自分たちの地域の生活に、なにがもっとも大事で、重要で、その中に、自分や自分の生活や自分たちの地域の生活の枠を越えられる普遍性が潜むのではないか…と問えといっているのだ。
地域もふるさとも、いま自分がいるそこにだけあるのではない。つながり合える何かによって、他の地域の人や遠くまだ見ぬ人との間にある。
では、それは何のか。それを問うと、どうしても、そこには、「これでいいのか」が必然的に私たちの前に立ち現れてくる。そこに挑む。それが表現する側の、表現を受け止める側の基本になくてはいけない。
では、それは何のか。それを問うと、どうしても、そこには、「これでいいのか」が必然的に私たちの前に立ち現れてくる。そこに挑む。それが表現する側の、表現を受け止める側の基本になくてはいけない。