秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

理想をみない社会

理想を語らない社会、理想を信じない社会…

それは可能性を信じない社会であり、変化を生み出そうとしない社会だ。人を信じない社会だ。
 
理想の実現へ向かわない社会、手の届く現実にしか理想をみない社会…
 
それは人々が現実の前に理想を放棄する道だ。互いの力を信じない社会だ。人の力を信じない社会だ。
 
理想というのは現実のそのままの延長にあるのではない。理想というのは現実を拡大理解する先に見えるのはではない。
 
理想というのは現実においてほぼ不可能か、実現することが途轍もなく困難で尻込みするようなところにあるのだ。
 
それでいながら、人々の中に、ほんとだったら、こうあるべきなのにな…ほんとだったたら、こうあってほしのにな…とひそかにあり、かつ、言葉や行動にするのに、躊躇や戸惑いを抱くものにこそあるのだ。
 
その理想を語るとき、よし!いいぞ!とか、やれやれ!とかいった勢いをかりた言葉や励ましではなく、すばらしいね、だけどさ…とか、やるのかい、ほんとに…とか、賞賛はされても、その取り組みの困難さへの言葉の比重が大きいものの中にある。

その理想を語るとき、場合によっては、そんなことは不可能なことだと嘲笑され、愚かと失笑されるものの中にこそある。場合によっては、制度や権力から排除される物の中にある。
 
いまという現実を対立や競争、勝利や敗北という勝ち負けの基準ではなく、すべての人にとっての幸福と、そのための平和へと導くものの中にこそある。
 
経済の豊かさや物質的な充足は現実の中にしかない。目に見えるものだけを見る先にあるのは、心に理想の種を持たないことだ。
 
心に理想の種を持てない子どもたちが増えれば、家庭も、地域も、社会も、世界も、殺伐とした理想の木の茂らない心の砂漠地帯が広がる。
 
心の砂漠にいながら、理想という水を求める世界が広がる。砂漠をくったのは理想の種を育てなかった自分たち自身であることにも気づけずに…。
 
心に理想の種を持てない子どもたちが増えるのは、理想を語る大人がいないからだ。
 
理想とできる大人がいないからだ。
 
それは、現実しか語らない大人ばかりだからだ。現実を越えられない大人たちばかりだからだ。
 
家庭という枠組みも、地域という枠組みも、社会という枠組みも、国という枠組みも、すでに枠組みそのものが崩壊している。しかし、枠組みが崩壊する不安を枠組みを強化することで逃れようとする。
 
そのために現実を強化する道しか歩む術を人々は知らない。現実を越えて理想を実現する道を歩もうとしない。
 
それは理想の種を自ら育ててこなかったからだ。撒かれた理想の種が大きな木となり、やがて理想の森となり、それが生物多様性を守り、地球生命体を守る道だと知らないからだ。
 
目先の利益と我欲のなかで、うちの家さえよければ、うちの地域さえよければ、うちの会社さえよければ、うちの社会さえよければ、うちの国さけよければ…そのセクト主義の果てにあったのは、そこを生きることの息苦しさと理想の種をからす道だった。

理想という目に見ない世界は人の目に見えないのではない。見ようとしないから見えないのだ。