秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

新しい社会モデル

現状を容認して、現状の先に未来をみるのか。現状を否定して、新たな未来を築くのか。その線引きは簡単なように見えて、実は簡単ではない。
 
現状を容認するというその容認はすべてにおいてなのか、一部においてなのか。現状の先にみる未来とは、どういう未来であるのか。その選択の振幅は一応ではない。
 
現状を否定するというその否定はすべてにおいてなのか、一部のおいてなのか。新たな未来とは、何をあらたというのか。新たな未来とはどのような未来をいうのか。その選択の振幅も、また一応ではない。
 
あるいは、現状を一部容認しつつも、現状の先ではなく、新たな未来を描くものもいるだろう。また、現状を否定しつつも、現状の先に未来を描こうとするものもいるだろう。
 
これからの家庭のあり方、これからの地域のあり方、これからの社会のあり方、これからの国のあり方、これからの世界のあり方、これからの人類のあり方というものは、つまり、そのように多様で、振幅のある選択の中から、何事かを選ばなくてはいけない…という時代にオレたちは生き合わせている。
 
成熟化がもたらず、多様性と過剰流動性と高度情報化と技術の高度化がもたらす、情報網・通信網・交通網の発展とは、そういう選択を人類自らが生きることを意味している。制度設計においても、システムにおいても、社会規範や倫理、道徳、それを基本とした法制度においても、国家意識や宗教観においてもそれは同じだ。
 
決定能力の低下や実践的な行動力の脆弱さを人々は批判する。しかし、実は、オレたちが生きているいまという時代は、必然的に、そうしたものを低下、脆弱化させる時代なのだ。いうまでもない。先に述べているように、いずれかの道を歩むにせよ、そこに決定的で、普遍的で、揺るぎない選択肢はどこにもないからだ。
 
複合的で重層的で、かつ横断的、縦断的に錯綜する選択肢の中から何事かを選択するということが容易ではない…ということは、選択にどうしても時間と労力が必要になる。しかも、選択されたものの有効性はすごぶる短い。
 
それによって、現実の生活、現実の社会、現実の国家、現実の世界というのものは、それぞれがかつて持っていたリソースをも希薄にする。それがますます、選択のむずかしさ、実行力、実現力の弱さを助長する。
 
たとえば、こうだ。昨日、新橋駅前のSL広場に、MOVEの仲間であり、同志であるふくしま海援隊のOさんたちが出店していた。そこに、Oさんたちの販売のお手伝いに仲間のHさんが参加し、応援に、オレやMOVEの仲間がかけつける…錦糸町のときには元事務局長のTも売り子に参加した。
 
これは、オレがMOVEという活動を始めていなければ、実現していなかった。Oさんと出会いがあっても、OさんたちがオレやMOVEとのつながりを新しいチャネルとして受け入れてくれなければ形にもなっていない。自分たちが現実にいわき市で持っているリソースを補うものとして、受け入れようとしていなければこうした姿は生まれていないのだ。
 
リソースを東京といわきで互いが持ち寄ることで、こうしたつながりや応援が可能になり、Oさんが現実にもっているリアルのリソースを補完することができる。あるいは、現実にSL広場に来なくても、SNSを通じて、同時間性を生き、そこにエールをおくることで、ひとつの意識共同体が生まれている。それが新しいエネルギーのエンジンになる。
 
東京といわきという時間と空間を越えて、人がつながることで、そこに限界のあった実現能力や決定能力が補完され、多くの選択肢の幅を狭め、何がしか新しいことへ進むことができるのだ。
 
現実の時空の限界や弱さをどう乗り越えていけるのか、いけばいいのか。多様な選択の中から確かな方向性を見出すためには、まず、何が必要なのかをこれは教えている。
 
しかし、ただひとつだけ、決定的で革新的に理解しておかなくてはいけないことがある。それは、これをビジネスに、もっといえば、私利私欲のために利用しようとして、転用すれば、現実を救う新たなリソースの提供にはならない…ということだ。おそらく成立すら不可能だろう。
 
現実の弱さを互いが認め、知り、理解し合い、相互扶助によって新しい世界を構築する…その志において、それは人からも、地域からも、社会からも、国、世界からも支持される。これはビジネスモデルではなく、新しい社会モデル、社会運動でなくてはいけない。それがなくては、意識共同体という高見にたどりつくこともできない。