秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

お父さん お母さん

人は記憶の中からいろいろなものを消していくことができる。
 
それは自分や自分の生きる社会にとって不都合なものを意図して消し去る場合もあれば、記憶を消し去ることで何かを捨て、いまという現実に溢れる、即時的で即物的な情報を大量に取り入れるための場合もある。
 
現世利益をえるために、あるいは、いまという自分の自己同一性を保とうとするとき、過去の時間と記憶が邪魔することがあるからだ。
 
また、あまりの情報量の多さに、人の脳のディスク容量に限界がきている場合もある。かつ、過去に通じたスペックが通じなくなり、新しいスペックをインストールするためかもしれない。
 
次という未来へ、それが悪しき未来であれ、よき未来であれ、向かうためのアイテムや武器や戦略。それが必要だというとき、人はそれを手にいれるために、記憶を消す。
 
格納してアーカイブとしておいておくこともできる。
 
だが、それが有用であるうちは、どこに格納されているかを脳のトップ画面から見やすいようにアイコンをディスプレーしておくが、格納のフォルダーが増え続けるにつれて、取り出し頻度の低いものは、次第に忘れられ、あるとき、使わないからと削除されてしまうだろう。

私たちの社会に限らず、資本主義自由経済の社会では、それが成長期にあるうちは、人々の記憶を削除したり、消去する度合いが少ない。社会システムがそれほど複雑ではなく、人々の情報も一元化されやすい体質だからだ。
 
だが、これが消費社会から成熟化へと向かうほどに、社会システムは複雑になり、情報は重層化し、多様性に溢れる。これにより、高度な情報管理社会が必要となる。これに並行して、制度はデータ主義や制度維持のための管理主義=便宜主義=官僚主義に陥る。
 
データ主義、管理主義になると、記憶が記憶であるがゆえにもつ、曖昧性はつかめなくなり、蓋然性のあるものしか、データ上に残れないということが起きる。

人々の道徳心や社会的協調性というのは、じつは、日常生活の中で、社会制度とは別に、記憶の中で継承され、プレビューされ、社会とはこうあるべきという蓋然性つくり、かつ記憶として共有することで、これまで維持され、常識や道徳とされてきたのだ。
 
つまり、記憶の曖昧さというデータ化できにくい部分の狭間にこそ、存在しえたものなのだ。だからこそ、吉本隆明共同幻想を語ったのだ。
 
若い世代に限らず、人々から社会性、もっといえば公共性や公益を第一とする言動が失われているのは、こうした事情によっている。

同時に、生活弱者や社会が持つ問題点、それが人々にもたらす不条理、理不尽さといったものを見抜き、マスコミや政治、地域行政の中で流されている情報の整合性を社会性、公共性、公益性から検証し、判断するという常識も失わせている。
もっといえば、国際性においても。

簡単にいえば、膨大な情報と情報を駆使できる利便性を手にいれながら、高度なデータ社会、管理社会をつくった結果、人間にのみ与えられた記憶の持つ曖昧性とそれが生む社会性、公共性、公益性、そして国際性から遠ざかってしまっている。
 
記憶は、確かにやっかいないものだ。私たちの脳が残す記憶はすべてといっていいほど、歪曲され、私の脳に都合のいいようにデフォルメされている。
 
だが、それは意識という心の世界を持つゆえの自己矛盾だ。この自己矛盾があることで、私たちは、なにが真実であり、どこに偽りや愚かさ、そして過ちがあったかを直感として知ることができている。

いま詭弁やまやかしが、真実という仮面をかぶって、白昼堂々、歩きまわっている。
仮面たちは、社会性や公共性、公益性や国際性を自分たちの都合のいいように歪曲し、自分たちの歪曲した世界のために、それに準じない人間は排除するということが起きている。
 
お父さんのいうことを聞きなさい。お母さんを大事にしなさいとったことができない子は悪い子、いけない子。お父さんを政権にたとえてもいい。お母さんを靖国にたとえてもいい。
 
お父さん、お母さん。それを言う前に、お父さん、お母さんとみなから尊敬され、集まれる人になりなさい。また、お父さん、お母さんと崇めている人たちは、あなたのお父さん、お母さんはその程度の人なのかと世界から笑われないようにしなさい。
 
笑われていることに鈍感な子どもになってはいけません。少なくとも、狭窄して、排除する人になってはいけません。まともなオヤジなら、そう自ら範を示しなさい。まともなおふくろなら、私のことはいいからと、世界の人々から愛される道を歩ませなさい。