どこにも音楽が聞こえてこない
「あの素晴らしい愛をもう一度」というブログのエッセイにも書いているが、私が最初に音楽と出会ったのはクラッシックだった。
当然、小学校の音楽の時間に著名クラッシックは聞かされるし、シューベルトの歌曲などは斉唱させられる。だが、父の影響もあって、NHK交響楽団の定期演奏を放映する、N響アワーを見ていた。父が無類のクラッシック好きだったからだ。
当然、小学校の音楽の時間に著名クラッシックは聞かされるし、シューベルトの歌曲などは斉唱させられる。だが、父の影響もあって、NHK交響楽団の定期演奏を放映する、N響アワーを見ていた。父が無類のクラッシック好きだったからだ。
学校で聴いた音楽家の他の作品のレコードを聴きたかったが、当時の庶民の家庭にとって、ステレオはテレビ以上の贅沢品だった。
やむなく、図書室にある音楽家の伝記を読むことでがまんするしかなかった。だが、そのおかげで、学校で聞かされる音楽をより、鮮明に耳の記憶することができたと思う。
後に、東京芸術大学の創立100年事業の作品をつくるとき、それが役にたったのはいうまでもない。
やむなく、図書室にある音楽家の伝記を読むことでがまんするしかなかった。だが、そのおかげで、学校で聞かされる音楽をより、鮮明に耳の記憶することができたと思う。
後に、東京芸術大学の創立100年事業の作品をつくるとき、それが役にたったのはいうまでもない。
私は、すべての基本は音楽だと思っている。絵画や造形にせよ、私の仕事でもある、映画や舞台、ドラマにせよ、もっといえば、イベントやプロジェクトといったものも、そこには音楽が基本にある。
基本にある譜面がよくできているか、それは、数式や記号配列の美と同じだ。生命科学や分子生物の遺伝子連結の整列や宇宙物理の公式の美しさと同じだ…大仰にいえば、そう思っている。
それでいながら、その数式や記号の意味性を越えて、言葉や理屈を越えて、人の心を震わせ、奥深くに届くものに変換できていなかれば、いい取り組み、美しい取り組みとはいえないとも思っている。
そこには、自分という我や利己を喪失させる美しさがなけば、見事な何かを生み出すことはできない。
そこには、自分という我や利己を喪失させる美しさがなけば、見事な何かを生み出すことはできない。
いろいろな取り組みがいま被災地でも、限界集落化が進む地域でもされている。国の規模でも、豊かさだけを求める取り組みがされている。
富と富の集中を求めるだけの取り組み、地域の豊かさや賑わいばかりを求める取り組み、被災地という名目によりかかる取り組み…そして、そのことで自分だけの利益と名声を求める取り組み
美しい取り組みが失われ、美しくない姿がいくつも屹立する。どこにも、音楽が聞こえてこない…。