秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

正夢

福島のために自分にできること…そして、そのために集まってくれた仲間と共に取り組めること…ひとりひとりのぼく、そして私にできること…
 
そう思って、訪れたいわきで、全国のマスコミにはそのとき、少しも伝えられていなかった被災の現実を知った。アポイントはとったが、突然の取材訪問で尋ねたいわきジャーナルで話を聞き、出ようとするとき、編集長のSさんに、「秀嶋さん。だれもしらない、いわきのことを東京の人に伝えてくれよ…」そういわれた。
 
Aちゃんに教えられ、海岸線へ向かい、まるで足止めされたように塩屋岬の両岸で言葉をなくし、予定していた相馬へ車を向ける時間はなかった。会津若松原発事故避難地域から避難している方たちに支援物資を届けるために夜、2時間半近くをかけて会津若松へ向かった。須賀川、白河も訪ねた。
 
それから幾度かいわきを訪ね、避難所に物資を届け、まだ避難所暮らしをしていた子どもたちや区長さんたちの話を聞かせたもらった…幾人もの人たちの声を聴いた。
会津若松を再訪し、東松島石巻も訪ね…そこでも言葉をなくした。
 
そんな中、「大いわき祭」を港区の後援でやろうと決めて取り組んだが、当初予定8月がとん挫した。いろいろな思いがあった。だが、いろいろな思いがあったから、どうしてもやりぬくと改めて誓った。11月開催へ向けて、いわきのいろいろな方にお願いした。
 
そこで、こちらの考えることに、共感し、応援するよと声をかけてくれた方たちがいた。FMいわきの社長のWさんだった。FMいわきのAちゃんが業者や出演団体をあたってくれた。こちらも参加してくる団体や出店業者を直接当った。地元出身の弁護士Sさんが地元の利を生かして、段取りをしてくれた。
 
すぐに参加を了承してくれた人がいた。いわきのイベントには積極的に参加していなかった海鮮問屋社長のOさんだった。OさんはIさんとともにふくしま海援隊という名で被災した水産加工海鮮関連の復興を目指していた。福島民報のKさんともつながりが生まれた。
 
そこから、大きく動いた。おそらく、MOVEだけの力ではあそこまでのイベントに起爆することはできなかったと思う。

そして、いま、「大いわき祭」で出会った新しい福島出身の人々、福島在住の人々、気仙沼など他の地域の人々、南相馬など原発避難地域を支援しているボランティアグループとのつながりなど、ゆっくりと広がりを持ってきている。
 
すっかりチームになった海鮮問屋のOさんやIさんたちが中心になって始めた、「いわき復興支援東京オフィス」。それが人形町にできるという話を聞き、それだけでも不思議な感覚でいた。人形町には友人が二人もデザイン事務所をやっていた。長い付き合いで、遠方では飲まない自分が、人形町だけはよく足を運ぶ。
 
つい1カ月半前には、土地観があることもあって、撮影を人形町で…と提案し、撮影もやった。その準備のときに、久松警察署近くをスタッフとロケハンしていると、MOVEのTシャツを無償で提供してくれ、チラシの印刷代を取らなかったデザイナーのHさんとばったり会った。「近いうちによりますよ。コーヒーのませて…」。
 
一昨日、デザイナーHさんから連絡をもらった。「いわき復興支援東京オフィスってうちの階の上ですよ!」。担当のIさんにそれを伝えると「えっ! 下見には、Hさんのオフィスを見させてもらいました!」
 
いわきと出会って1年と少し。いろいろな仲間や同志ができた。それが、こんな形で結びついてく…
 
そしたら、どうしてかわからない。こんな曲が聴こえた…そして思い出した言葉がある。
 
この曲がリバイバルヒットしていた頃だった。当時、一緒に遊び、ツールド北海道で無名の団体から出場し優勝したOが、伊豆の海に遊びにったとき、夜、オレの夢を見たというのだ。「どんな夢? オレが一緒にいるのにヘンな奴だな…」「うん。秀嶋さんが、海に向って、手を合わせてたんだ…何かを祈るように…なんでだろう」
 
それは、いまからもう30年近く前のことだ。確かに、その夢は、いま正夢になっている。