秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

戦後は始まったばかり

セミナー翌日の12日と13日の午前中、FMいわきを訪ね、震災から現在まで、番組とリンクしている「いわき市ふるさと便り」のPDFファイルデータと特集番組のリストをもらう。13日は地元カメラマンのTさんからも話を伺った。
 
これまで会津若松市原発避難地域から避難してきた方やいわきを訪ね、被災地、避難施設、飲食店などでいろいろな方から情報をもらってきた。薄磯、豊間の合同慰霊祭では区長さんや被災した住民の方からもお話をいただいた。「大いわき祭」に参加してくれた、よさこいの海神乱舞(わだつみらんぶ)のお母さんたち、湯本温泉旅館組合の女将さん会がつくる、じゃんがらの湯の華会のリーダーの女将さんからも話を聴かせてもらった。
 
しかし、こうして構えて映画の企画の詰めのために話を聴くのは初めてのことだ。
 
MOVEの活動の仲間、福島民報のKさん、海鮮卸のOさん、ジャーナルのAちゃんなどから表に出ない地域の情報をこれまでずいぶんもらっている。Kさんの縁で地元で出会った方たちからも被災してからとこれまでのいわき市の課題や問題、そして、いわきの人々の心情も聞かされている。
 
FMいわきのAさんからもうらう情報も、これまでつかんできたいわきとその周辺の情報とリンクしていることが多かった。そして、また、いわきで起きた震災後の悲しむべき事件についても、ほぼ取材した通りのことだとわかった。
 
たとえはよくないのはわかってる。しかし、いわきの現実は戦争が起き、周辺地域が核爆弾で攻撃され、破壊され、その住民が線量の少ない隣のいわき市にどっと流れこんできた…という状況にどこか似ている。
 
大きく違うのは、核爆弾で破壊された地域には手厚い保護や支援があり、そうではないいわきには、そうした保障が一部核爆弾が投下された地域と隣接するところにしか与えられていないということだ。当然ながら、実際に核爆弾が投下されたわけではない。死傷者の数は、広野や双葉町に比べたら、はるかにいわきの方が犠牲者が多い。

戦後はそこに米兵が駐留し、いろいろな事件が起きた。それと似た事件が原発作業員によって起きている。また、避難してきた人々の極端な犠牲者意識が理不尽な過剰保護や権利を主張し、地元住民の反感を呼ぶ場面も生んでいる。
 
いまいわきには土地や家を求める人があふれている。いわき市自身の避難世帯だけではそうはならない。隣の広野町楢葉町、これまで会津や茨城、東京などに避難していた双葉、浪江、大熊、富岡町などの人々がいわきに流れている。
 
とりわけ、双葉町いわき市内にすでに大規模な仮設住宅ができ、いわき市内に双葉町特区を設ける動きがある。一つの市の中に、別の自治区があるという形だ。いわきから離れていく人々もおり、少ない土地と建物をめぐって、いわきはいま不動産バブルになっている。さらに、末端の原発作業員、復旧作業の土木関係の工事、瓦礫処理をやる産廃処理業者、そして除染業者がそこにからむ。

被災の規模が大きければ、まともな業者だけでそれを処理することはできない。当然、そこには闇社会とつながりの深い連中も国、県の予算に群がってくる。スーパーひたちには、その筋と見える男連中がよく集団で乗車していると聞いた。

一方で、市の力だけでは地域の復興がおぼつかないからと、大資本に頼り、小名浜には大型ショッピングモールができる。地元のおばちゃんたちに話を聴くと、異口同音に、地元の商店や飲食店、これまで観光で成り立っていた料亭が立ちいかなくなり、小名浜のよさが失われると気づいている。
 
かつて、「戦後は終わった」と発言した総理大臣がいた。昭和29年のことだ。しかし、国民生活の中にまだ、基地があり、米兵の起こす事件があった。少ないパイを奪い合う諍いはいたるところにあった。いわきの震災後は終わっていない。まさに、いま始まったばかりだ…。ほどよく店舗があり、復興・復旧関連の基地であり、気候は温暖。一部にはバブルもある。しかし、観光は原発事故の壁にはばまれ、農産物・水産物は行き場がない。海岸線の被災した地域の家々への補償もまだ確定していない。漁業補償はあっても、水産加工には何の補償もない。

とどかない行政の眼、マスコミの眼…それが、そうした人々を真綿で〆るように苦しめて続けている。表に現れる笑顔の向こうに、それがある。
 
写真は、13日の久ノ浜。11日の月命日で花を手向けた遺族のものだろう…。
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