秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

ぼくらなのかもしれない

「ウソは泥棒の始まり」。

子どもの頃そう教えられた。幼少年期ほど、大人の目、親の愛情を求め、ほめられたい、叱られたくないから、どこかでウソをつくし、思春期、青年期になるほど、自意識がそうさせる場合が多い。

成人し、社会で生きるようになると、自分だけでなく、世の中はウソやごまかし、ズルであふれているのだということに否応なく気づく。つまり、本来、人はウソやごまかし、ズルをやるものなのだ。

本人がウソやごまかし、ズルと意図していなくても、結果、相手や周囲がそう理解する場合だってある。また、実際に、ウソやごまかし、ズルをやっていても、本人にはまったく自覚がないということも多い。よくあることだが、ウソやごまし、ズルなんてやっていないもんと、記憶から完全に消してしまう人もいるくらいだ。

「開いた口がふさがらない」w

だが、実のところ、時と場合、関係性によって、だれだってウソはつく、ごまかしも、ズルもやる。チームスポーツでは審判の目を盗んでのズルはよくあることだし、個人競技でも格闘技など、だまし合いの部分もある。仕事での駆け引きや人心掌握のためにそうする人もいるだろう。

だから、真実、真実と口角泡を飛ばすこと自体、あまり意味はないし、求めてもなにかが変わるわけではない。それほどに、真実や誠意は、無力だ。

自分の知る人、認める人には、そうあってほしくない…そう思うのは人情だ。だから、関係性や立場によって、世間体やプライドから、自分のことは棚上げして、相手にそれを求める気持ちもあるだろう。

だから、ウソやごまかし、ズルをやられると、人は怒り、真実とか、誠意とか、信用とかを口にするのだ。それが効果も意味もないことをどこかで知りながら…。

失望が大きい分、残念さが深い分、そうなる。それは信頼、信用だけではなく、それまであった敬意すらも反故にされたことへの傷が大きいからだ。

このところ、ぼくらの世界、国、社会では、ウソやごまかし、ズルが蔓延している。人々に夢や希望を語り、期待を持たせて、人々の気持ちを惹きつける。なにか共通の敵や壁をクローズアップして、人々の支持や人気を勝ち取る。

世界のため、自国のため、国民のため、みんなのため…大方は、そうした言葉が装飾されているが、じつは、自分と自分の周囲のため…というのがほとんどだ。そういう言葉に執着する人ほど、どこかで自分の利益を考えているものだ。

そうした風潮の蔓延は、稚拙だけれど、これからももっと当たり前のように広がるだろう。だが、非難し、やめさせることができるものではない。そんなことでは、利益も満足も、安心もえられないことを教えるしかない。

どこまでいっても、ウソやごまかし、ズルを続けて生きる生き方が本当に自分にも人々にも幸せをもたらすものなのかを問えるようにするしかない。

それには、人々がウソやごまかし、ズルに振り回されない自分になることだ。それは、自分自身の中にあるウソやごまかし、ズルに気づくことからしか始まらない。

病んでいるのは、世界ではなく、ぼくらなのかもしれない…