秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

熱と熱

時代にあって、時代に飲みこまれない。本当に秀逸な人間というのはそういう人だと思う。
 
時代にあって、時代に飲みこまれる人。それは「熱」に弱い人たちだ。

歴史をふりかえれば、必ず、悲惨や悲劇の前に、それを予見したり、予測したり、予知できる人がいる。あるいは、あるべき未来、来るであろう未来が見える人がいる。
 
だが、時代はいつも、そうした人たちの声や言葉、願いを振り返ろうとしない。受け入れようとはしない。
 
だから、そうした人たちは、時代にあって、いつも孤独だ。

その時代が常識としたもの、通説や通例としたものとは遠くにいるから、時代からははじかれる。はじくのは、時代に飲みこまれる多くの「熱」の人たちだ。

また、時代へ媚びも売らなければ、現世利益よりも時代を拓くことが先にある。その無償の理想がわからない人たちからは警戒もされ、不信も抱かれる。

自分の利益を考えない人ほど、利益を考える人たちには、怪しくしか映らない。想像もつかないからだ。
 
「熱」には、必ずそれに対立する「熱」が生まれる。そこに論理的なものはなにもない。感情と心情という自分たちでも手の付けられない情動によっているからだ。
 
「熱」と「熱」がぶつかれば、だから、醜い人の内実があからさまになる。
 
偏見や差別が露骨にぶつかり合い、言葉の暴力と諍いが牙をむく。それをまた、批判する人もいれば、そこから遠く距離を置こうとする人も現れる。
 
だが…。
 
人が病で熱を発症するように、抗体とウィルスがせめぎ合うことで現れる熱は、人体にとって必要なものだ。

それを批判したり、笑うことはだれにでもできる。だが、批判したり、笑う人は、どのようにして、火の粉が自らに降りかかったとき、病に瀕したとき、自らをどう治癒していくのだろう。

批判し、笑い、遠くにいるということは、それも「熱」と「熱」の醜い人の内実がぶつかる時代に飲みこまれているということでしかない。

「熱」と「熱」は論理を越えて、ぶつかり合う宿命だ。また、それを批判し、遠巻きにするのも、その「熱」に煽られているに過ぎない。だが、そのすべてが現実というものだ。
 
理想やあるべき姿というのは、そのせめぎ合いと肉弾戦のような醜さの向こうにしか見えてこない。

本当に秀逸な人とは、それを受け止めて、次を模索できる人たちのことをいうのだ。