秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

人は病む

人は病んでいる。過去の傷や記憶や成育歴や挫折や成功や失敗や敗北の中で…

大きくいえば、愛の喪失感がそうする。
 
だが、人は病んでいる、そのことを拡大させるか、しないか、あるいは、人の心の闇をいやせるかどうかは、社会のあり方で決まると私は確信している。
 
ある人はいうかもしれない。なんでもかんでも社会のせいにしては…と。しかし、そうした言葉を聞く度に、私は、そういう人たちの社会意識の低さ、社会認識の無学さを悲しむ。
 
社会をつくっているのは、私たちひとりひとりなのだ。社会の最小単位は家族だ。つまり、自分の家庭や自分が生まれ育った家庭のあり方、そして、その後の家庭の社会とのかかわり方が社会をつくっている。
 
人のせいにしては…という言葉には、その自覚がない。つまり、人が病む社会をつくているのは、私であり、あなたたちひとりひとりなのだ。その責任の内にあるのだ。

社会も国も、世界も、どこか遠くにあるのではない。また、その姿の悲しさも痛さも、あるいは楽しさも、結局は、私たち、あなたたちがつくっているのだ。

人が病む社会は、その病んだ弱い心を利用する人間も誕生させる。
 
強引さや強い言葉など…いわゆる親分肌の人間が自分の損得と利益のために、周囲の心の弱い人間を利用する。利用するために、言葉の暴力や威圧、義務や責任でしばり、無言の圧力を使い、支配を広げる。
 
一度、隷従と支配の関係になると、心弱き人は、それが悪しきこととわかりながら、あるいは、世間の倫理や道徳から遊離した理不尽なものであっても、黙ってそれに従わされる。
 
いい子であろうとして、この支配の構図にときとして、安心感や居心地の良さすら、感じてしまう。孤独な人ほどそうなりやすい。
 
支配する側も隷従する側も共に病み、病んだ中でいろいろな社会的さざ波を立てていく。家庭が、社会が、地域が、閉じれば閉じるほど、この社会的病理は拡大する。
 
現実に、すでに10年ほど前から、近親者でも家族でもな人間たちが共同生活の閉じた世界にはまり、あるひとりのボスに共同責任を強いられ、共同生活者の実家や親族の資産や財産を目当てに殺人を起すといった事件が起きている。
 
あの園子温監督の名作「冷たい熱帯魚」は現実にあった連続殺人事件をヒントに描かれている。数日前も保険金詐欺のための連続殺人の事案が発覚した。類型した事件はいま増えている。また、発覚していない事件も少なくはないはずだ。
 
他を排除し、だれかにつくられた掟や規範に縛られて、だが、縛られることに安心をえて、閉じた世界を閉じた世界と自覚できずに、現実から遊離していく。

それは、例にあげたような閉じた疑似家族的空間でなくとも、いま、社会の至るところにある。LINEからだれかを排除するというのもそのひとつだ。

だが、それもだれかがそうしたのでも、自分とは関係ない世界のものではない。
 
病んだ社会は私たちが、あなたたちが、いま、ま、いいか、しょうがないか、どうしようもないし、面倒だし…といった心情と言い訳の言葉の中で、増産し続けているのだ。