アメリカという国の凄さ
政治の季節がきている。解散の予感や政権の脆弱化が起きれば、当然ながら、次の政治へ目が向く。
しかし、次の政治っていうのは、いったい何なのだろう。果たして、この国に、次の政治がきた時代は戦後、あったのだろうか。次への期待はあっても、次の政治が誕生した記憶がオレにはない。
いや。次の政治をつくろうとしても、それを許さないものがこの国を支配しているのだら、次の政治そのものがやれるわけがないのだ。いろいろに政治を目指す人、政治の世界にいる人たちはいうだろう。
だが、政権をどのような人がとっても、結局は、アメリカの支配と隷従の中でしか、この国は政治・外交が許されていない。それを知っていても、あるいは知らないくても、多くの日本人がアメリカとの友好関係が重要だと考えているし、思っている。
アメリカが超保守的国家だから、日本も超保守的国家になればいいのでもなく、アメリカの良識ある人々にあるシティズンシップを生きれば、それでいいのでもなく、そのときの世界情勢、アジア情勢、あるいは、アメリカの経済状況によって、日本の支配のあり方は変わる。
アメリカが超保守的国家だから、日本も超保守的国家になればいいのでもなく、アメリカの良識ある人々にあるシティズンシップを生きれば、それでいいのでもなく、そのときの世界情勢、アジア情勢、あるいは、アメリカの経済状況によって、日本の支配のあり方は変わる。
そこに一貫性はなく、その場、そのときの状況において、どう自国にとって都合がいいかで多国間交渉=支配を考えているし、それによって、日本経済も、政治外交も決まっている。
傀儡化できない政権が誕生すれば、それをつぶし、傀儡化できなくても、アメリカの意向と同調できる政権であれば、大目にみる。その天秤の中で、この国は戦後をずっと生き続けている。
傀儡化できない政権が誕生すれば、それをつぶし、傀儡化できなくても、アメリカの意向と同調できる政権であれば、大目にみる。その天秤の中で、この国は戦後をずっと生き続けている。
アジア主義をいった湛山がつぶされ、日中国交回復を独断した田中角栄をアメリカ議会がつぶし、第七艦隊だけいればいいといった小沢を検察がつぶす。沖縄の国外、最低でも県外といった鳩山もこれまた検察の餌食にされようとし、ビビッて、言葉を変えた。
いま威勢のいいことをいってる人たちは、ほとんどが国政未経験の人たちだ。そのことが悪いとはいわないが、自分たちが思っているほど、自分たちだけの力で国のあり方を変えられるほど、浅いものではない。アメリカという国、アメリカの支配という現実、そことどう向き合い、どういう姿勢と構えをとるのか。
それをみていれば、その人たちが、次の政治をつくれる人なのか、そうでないのかはすぐにわかる。それほど、どう転んでも、この国は、ほどほどの、そつない国として、そこにあるしかない国なのだ。
だたひとつ。それが突破できるのは、威勢のいい演説ではなく、また、煽られた政治の季節でもなく、市民が連合、協働し、こうした国であるべきだとアメリカとの袂を分かつほどの、決意を示すときだ。戦後の歴史で、アメリカが本当に慌てたのは、60年安保のとき、主婦が割烹着をきて、子どもの手を引きながら、デモに参加している姿をみたときだった。
アメリカが日本において、一番恐れるのは、地域を基盤とした家庭の集合がつくる共同体の力だ。
学生や労働者はいかようにもコントロールできる。アメリカはそう確信しているし、そういう手立てはいくらでも持っている。だが、共同体を基盤として、国民の総意が反アメリカ一色になったとき、それを押さえる手立てを軍事的介入しか、アメリカは持っていない。