秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

それより大切なこと

岩手県滝沢市で起きた、AKB48の握手会での殺人未遂事件。犯人は、青森県十和田市の24歳のひきこもり傾向の強い男だったことがわかっている。

こうした無差別殺傷事件の犯人と同じように類型的で、社会適応や社会的コミュニケーション能力が低く、それゆえに、適応できない社会に対して、なにがしかの憎悪を抱き、受け入れない社会そのものを否定するように無差別に犯行に向かう。
 
その証拠に、こうした事件の犯人が異口同音に語るように、今般の犯人も「襲うのはだれでもよかった」と語っている。
 
当然ながら、AKBである必要もなかっただろう。男が襲撃したかったのは、AKBなどいま大衆が迎合する流行という名の空気感、賑わいとそこに集まる人間たちであって、どうしてもAKBである必要も、被害に遭った彼女たち個々人ではなかったはずだ。

被害に遭った少女たち、また、当事者であるAKBを始め、こうしたアイドル系の少女グループには、簡単に消えない深い心の傷が残ったに違いない。いのちを奪われなかったのは不幸中の幸いといっていいほどの事件だ。
 
マスコミやファンは、悪質なファンとか、異常者として犯人を否定し、被害にあった少女たちや団体に思いを寄せるコメントをしている。それはそれで否定はしない。
 
だが、社会悪をつくり、これは異例のことと片付けていいのだろうか。そもそも論を今回を機会に、この国の人たちは、真剣に考えた方がいい。
 
以前から、私は、こうした少女という性を商品化するマスコミや芸能界のあり方を否定していた。10代の女子に短いスカートを着せ、まるでマスコットや人形のように、「少女」を商品化する。写真集やプロモーションには、扇情的といえる作品さえある。

また、それをアキバ的オタクファンや同じ世代の少女たちが憧れの対象のようにして、支持する。そこには、いい歳をした中年男性の追っかけカメラマンもいれば、ちょっとあやしい青年、壮年もいるのだ。
 
こうしたオタク現象は、いま世界にも広がっている。だが、グラビアを筆頭に、テレビや写真、映像などで、日本のように10代の「少女」を商品化することは、子どもの権利にうるさい海外では規制があり、ありえない。日本のような姿は異常だ。

少女(ロリ系アイドル系)は、趣味嗜好の問題だというだろう。だが、そうではない。
 
性を売りにした少女軍団は昔からある。歌舞伎の源流となった出雲阿国から、遊女歌舞伎という形で、地方の手古舞や地域の舞踊を芸にしながら、売春を前提とした集団が一世を風靡した。
 
権力に風紀規制を受け、芸者の集団舞踊という形でそれは残っていった。
 
おニャン子も、モー娘も、AKBも別に秋元やつんくが生み出した新しい文化ではなく、本来、この国にあった性的風俗文化を現代によみがえらせただけのことだ。それだけに、性と結びつきやすい。その危うさをよく承知しておかなくてはいけない。
 
フィリピンを始め、インドネシア半島、アフリカ、中東などで少女たちが性の商品として売買されている現実も一方にある。
 
いま、被災地で、その応援と称して、地元アイドル少女グループというのがあちこちに生まれている。東京的なアイドルブームを模倣し、集客や誘客をしようというねらいだ。だが、それは、まぎれもなく、地域の少女を性的な商品として都市に売ることでしかない。
 
こうした少女を商品化するのは、そこに利益があるからだ。ビジネスになるから、動いている輩がいる。問題は少女たちではなく、それを商品として提供する人間たちであり、それをむさぼる消費者だ。
 
今般の犯人は、明らかにそれらがつくる、にぎわいへ向けて狙撃している。加藤がアキバを狙撃したように。結果、被害に遭うのは、たまたまそこに居合わせた人々だ。
 
マスコミや芸能界のあり方、この国の少女文化を消費するあり方。それを見直すときではないのか。そして、さらに、私が心配なのは、これが東北で起きたことだ。
 
震災から3年。救われない歪な心が暴発するとこうした事案が生まれると震災直後から警鐘を鳴らしている。
 
にぎわいと盛り上げを演出していればいいのではない。それより大切なことがほかにある。