秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

本物

演劇でも、映画でも、美術やその他のアートにおいても、私が20代の頃に比べれば、無名な新人や集団でも、かなり容易に自分たちの作品や演技を人の眼にふれさせることができるようになっている。
 
アートや芸術文化の裾野が広がっているのはいいことだと思う。
 
演劇の本番、イギリスにしても、アメリカのブロードウェイにしても、その裾野の広さが歴史的に演劇を支えている。それが結果的に映画にいい俳優を供給するシステムにもなっている。
 
ヨーロッパの場合、地域の教会を中心にして、様々なキリスト教行事や祭事に連携して、地元にあるいくつものアマチュア劇団や音楽グループなどが発表をやる。その中から地元劇場やライブステージの舞台へと上がっていく人や集団も少なくない。

そこから、力のあるアーティストは都市部の権威ある劇場やステージに挑戦していく。逆に、イギリスのように、ロイヤル・シェークスピア劇団に選抜を勝ち抜いて所属しても、最初にステージに上がれるのは地方の舞台からだ。
 
国内最高峰の劇場専属劇団に所属しても、まず地方回りで演技力を磨かせる。そこで観客から認められたものが、再びロンドンの檜舞台へ上がる仕組みだ。

ブロードウェイでは、御存じのとおり、ブロードウェイを支える、オフ・ブロードウェイ、オフオフ・ブロードウェイ…いまでは、オフオフオフ・ブロードウェイまである。

松本幸四郎の代名詞となっている「ラ・マンチャの男」も、じつはオフオフ・ブロードウェイで上演されていた、小劇場の芝居。それがステップを踏んで、世界演劇の名作のひとつと評価されるようになった。
 
ただ、何事につけてもだが、どのように無名な新人であろうが、集団であろうが、作品であろうが、メジャーの舞台に上がっていなくても、いずれそうなるだろうという作品性の高さや芝居の巧みさが、当時からあるものだ。

日本でもかつて小劇場ブームといわれた時代、そこから出発して、いま演技派として有名俳優となっている人は少なくない。そして、現実に、その舞台を観た人間のひとりとして、当時から彼らには、その片鱗と予感を強く感じさせるものがあった。
一方で、時代のノリ、話題性などで着目され、メジャーの世界に足を踏み入れながら、いつか消えたいった人や集団も少なくない。

人々の眼にふれる大きなステージに上り続けることができたものとそうではない者の差はどこにあるのだろう。
 
それは単純に、本物であったかどうかの違い。本物を目指す志の高さがあったか否かの違いだと思う。人の巡り会わせや作品との出会いという偶発性はあるが、それと出会えるか、生かせるかも、自らが本物であるかどうかにかかっている。
 
もちろん。なにをして、本物というのかについてはオブジェクションがあるだろう。世阿弥でないが、本物であろうとすることでしか本物ではありえないし、「時分の花」というように、そのときどきに咲く花を表現できるかできないかによっても違う。

だが、骨太に、しっかり腹の座ったところで、作品や仕事と向き合うということは共通している。人のペースや思惑ではなく、自分の世界を持ち、自分のペースを生きられるということだ。
 
昨夜、再放送で、池波正太郎の食の世界をドキュメントした番組をNHKプレミアムで流していた。10代後半の頃から尊敬する作家のひとり。とりわけ、池波正太郎の食についてのエッセイは影響を受けた。

菊田一夫先生や北條秀司先生にも同じようなにおいがあった。新しいものに驚くほど柔軟でありながら、作品には、まるで剣道の正眼のように、こちらから打ち込む隙がない。それでいて、人の心の機微を見事にとらえている…。

本物とは、そういうものだ。