秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

複次元の思い

演劇のおもしろさは、その複次元性にある。多元的であるというより、同一空間、同一時間の中で、複合した次元が同時に存在する。そのおもしろきが演劇なのだ。
 
と、冒頭からわけのわからないことをと思う人もいるだろう。だが、自分の日常の時間を冷静に紐解けば、その意味することはわかる。日常も実は、その複次元性を生きているからだ。

何か仕事でPCに向いながら、人は今日のランチはなんにしようと考える。先日テレビをみたときに知った、ある洋食屋のオムライスが浮かぶ。そのとき、その人の空間と時間は、いま仕事をしている時間を越えて、そのときのテレビをみていた自分を生きている。
 
それでいながら、仕事の手はやすめず、電話が入れば、それに対応するし、上司から声をかけられれば、にこやかに反応できる。そして、イライラした顔ではなく、にこやかに反応できるのは、そうあるように育てた親のしつけがあり、かつ、社会人としての研修を受けた賜物かもしれない。その時間と空間もそこにある。
 
つまり、ひとつの空間と時間の中に、いろいろな自分と自分をつくっている人とその歴史とそれがあった空間と時間が複合して同じ時間の同じ空間の一瞬のそこにある。
 
普段意識されていないそれを、演劇の時空は意図して意識化し、構造化させる。時間の不可逆性にあがらい、時間と空間を過去にも未来へも転換できれば、登場人物の意識の世界を現実の時空として再現する。
 
日常で実は脳と身体の中で起きていることを、視覚化し、複次元の世界を1時間から2時間ほどの芝居の中に同一化させて凝縮してみせる。その巧みさに人は、ああ演劇だな、舞台だなと、演劇でなければできない同時空のおもしろきを楽しむことができ、そのおもしろきに感動し、共感するのだ。
 
当然ながら、それができていない、わかっていない舞台はつまらないし、演劇的ではない。演劇という表現をとる必要がない。
 
簡単にいえば、演劇の生理とはこういうことだ。
驚くことに、これを室町の時代にすでに形象した作家がいる。当然ながら、世阿弥だ。彼の作劇法、複式夢幻能がそれ。現実と過去の現実とを同じ主人公の同一空間、同一時間の中で共存させ、圧倒的な演劇の世界観を示した。「敦盛」は、その完成形。

だが、それは演劇だけにいえることではない。物を生み出す仕事、それがなんであれ、そこにはそうした脳の世界が存在し、脳の世界で終わっていない証拠に生産物という形で姿をあらわず。いろいろな時空のいろいろなそれぞれの思いがあって、ひとつの生産物は生まれているのだ。

自分のつくるものでありながら、そこにはそれをつくることのできたいろいろな思いがある…ここには、それを知る人たちがいる。
 
 
写真は国見町で今年洋菓子店を開業した、La4区のオーナーパティシエ渋谷さんとお菓子。メンバーのAさんに紹介された店。国見で、こんな本格的な洋菓子が食べられるとは思わなかった。東京で修行し、震災後両親のことが心配で福島に戻り、本来あるべき選ぶ楽しさのある店を地元に…と始めた。ひとつひとつの作品に、複次元の思いがこめられている。
 
 
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