秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

私の誇り

3.11から丸3年…マスコミや支援者や識者、あるいは地元の声として、いろいろな課題が指摘される…
 
だが、その多くは、震災からしばらくして、すでに被災地の中で生れ、語られ、議論され、葛藤と煩悶の中にあったものだ。この3年の中で、指摘されていたものだ。
 
時間経過とともに、その姿がより鮮明となり、同時に、それまで抑えられていた、人々の多様性、思い、人心が時と共に、あからさまにされてきただけのことだ…と私は思っている。
 
心ひとつや絆といった言葉を私が意図してさけてきたのも、そうしたフレーズで人々の中にある、それは被災者であろうがなかろうが、存在する、生き方への欲や多様性を一律の美辞麗句に取り込むことの限界を知っていたからだ。
 
人の心とはそんなに美しくもなければ、そんなに醜いものでも、また、簡単に言い表わせるものでもない。それが人心というものだ。まして、いつもいうが、被災地はひとつではない。被災者もひとつではない。
 
だから、今頃になって、それかい? いまになって、やっとかい?…と思わせる指摘や意見、コメントは少なくない。被災地に生きる人々とそうではない人々の心の格差、時差はそれだけみてもわかる。

その格差と時差は、思いの押し付けや、また思いの深さゆえ導き出す思い込みも決めつけを生む。人の生活と欲、希望には、ひとつにくくれない現実がある…その一点を見失う。

復興事業でいろいろな齟齬がありながら、一律、画一を推し進める形骸もそこに生まれている。場違いな支援やだれのための活動なのかわからない、内実とビジョンのないにぎわいが生まれるのもそこにある。

面から点の時代。震災の前からいい続けている市民生活の安定と未来の構築にかかかせない手法と視点の展開。集合や区域の中で人を見るのではなく、ひとりひとりの生活を見る…そこに手が届かない状態は変わっていないのだ。

いま、私の制作チームは、撮影や編集といったスタッフ、俳優だけでなく、広報宣伝から英語字幕翻訳スタッフ、それをサポートするネーティブまで、これまになかった人間の数が、福島浜通りについて仕事の中で知らず知らずに、ひとつの現実を学んでいる。
 
シノプシスの英訳を起して、チェックを翻訳会社に渡したら、ひとりのネイティブがどうしてもやらせてもらいたいと手をあげたらしい。福島を題材にした、この仕事にかかわたいと思ったのだ。

大切なのは、私や私の仲間たちのように現実に被災地とかかわることだけではない。仕事を通じて、その現実を知らせ、仕事を通じて、学び、格差や時差のない現実を伝え、広げることだ。それをまた被災地に戻すことだ。

無名のスタッフたちの、にぎわいも話題もない、静かだが、心を込めた作業がそっと進んでいる。そのことを私は誇りに思っている。