秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

温度差

疲労困憊なので、福島ひとり旅の詳細は徐々に報告するとして…

2013年、私は社会活動の範囲をいわきから、福島全県に広げるために、ITネットワーク、いわゆるSNSを活用して、なかなか連携できない、地域と都市や他県の地域を結ぼうと考えた。
 
その基本には「人」がなくてはいけない。建前や言葉で、地域間連携などといっても、現実に、人と人の具体的で、現実的な結びつきがなくては、ITネットワークなど成立しない。

そのための取材行脚として、会津若松福島県中通りを回った。そして、2年の活動の中で知り合った、中通りの生産者や加工業者の方たちを回り、その苛酷な農業の現実を知らされた。
 
それはたとえば、浜の水産加工にかかわる人々の苦労とも同じ要因のものだ。
 
いうまでもない。原発事故による線量とそれが導き出す過剰な反応の偏見…。私にいわせれば、差別といっていいものだ。現実に線量の問題のある地物といわれる産品はある。
 
だが、福島県は全品検査の上に、中通りの先進的な農家では自ら線量検査機器まで導入したり、他の民間機関に委託して、さらに線量検査までして、安全性の確保に必死になっている。が、それが理解されない。

だが、それに目くじらを立てたところで、状況が変化するわけではない。まして、農業やそれを資源とした加工業において、生産や加工を放り出して、口角泡を飛ばしている暇も、ゆとりもない。

主張や要請や要望はするにせよ。今日の作業、明日の手間暇を飛ばすことはできない。
 
一方で、いつも語ることだが、浜通りのように、大規模復興事業や大きな賠償補償がない、中通り地域は、被災によって地域に金が循環する仕掛けがない。とりあえずでも、にぎわいや原発補償による緩い資金供給など当てにできない。
 
これは大変なことになっている…私は、そのときそう感じた。
 
今回、あれから1年が経過して、より深く中通りを回ってみると、私が感じた地域を覆う圧力が、より人々を息苦しくしていることに気づかされた。

温度差というのがいろいろな場にある。

人と人が思う思いにも、その立場や状況によって、人の思いに温度差がある。親が子を思い、子が親を思う中にも、夫婦間においても、あるいは、恋人同士においても、思いを寄せる側と寄せられる側にも…

その温度差が、福島県内にもある。また、浜通り域内においても、中通り域内においても、会津地域内においても、ある。そして、福島と他県、あるいは、国と福島においても、さらには、世界と福島においても。

人の生活がひとつではない以上、地域の特性や利権、権益が一律ではない以上、それは少なからずあることだろう。
 
だが、私は思う。温度差が格差になってはいけない。温度差が無視や差別や偏見になってはいけない。
 
県のある課長とも語り合いながら、思った。温度差はあっても、オール福島ではなくてはいけないのだ。温度差はあっても、オールジャパンでなくてはいけないのだ。もといえば、温度差はあっても、オール・オブ・ザ・ワールドでなくてはいけないのだ。

自助や自立を求めることはだれにでもできる。また、それは基本になくてはいけない。だが、それが結果的に、温度差を容認し、格差を容認し、ひいては、差別や偏見を容認する詭弁になってはいけない。

温度差を乗り越えるための努力、温度差を格差へ持ちこないための工夫。それらは、当時者責任の問題ではなく、私やあなたやみんなの責任なのだ。

その思いの壁を乗り越えようとしなくて、おいしい料理も、いい時間も、あたたかなふれあいも、生まれるわけながない。人と愛を育むことも、人をいとおしく思い、つながる幸せも、えられるわけがない。