少しだけ
幼い頃、偉人の伝記や物語を読んで、自分もこうなりたい、なれたらいい…そう思った人は少なくはないだろう。
あるいは偉人ではなくても、何かのために、だれかのために、煩わしさをいとわず、身を呈した人のドキュメントや話を聞いて、涙したり、心ゆさぶられた人もいると思う。
あんな人になれたら…。だが、そう思いながらも、日々の生活の中で、見聞きした偉人や市井のすばらしい人のようには、とても生きられない。その現実に直面した人も少なくはないだろう。
あんな人になれたら…。だが、そう思いながらも、日々の生活の中で、見聞きした偉人や市井のすばらしい人のようには、とても生きられない。その現実に直面した人も少なくはないだろう。
あるいは、心ではそう思っていても、自分の弱さ、怠け心、場合によっては、自己保身や他者の目を意識して、そうできないという人もいたかもしれない。
そのうち、到底そうしたことは、なにか特別な人のことで、自分とは遠い、手の届かない世界のことだ…そうあきらめてしまったかもしれない。
確かに、人にはいろいろな欲がある。おいしいものを食べたいとも思えば、自分の心がいやされるものを大事にしたいとも思う。また、少しでもいまよりはいい暮らしがしたい。満たされたいと思うのが人の性分だ。
別に贅沢をしようというのではなく、自分の暮らし向きや自分の先々を心配する。そうなると、どうしても、どこかのえらい人のようには生きられない自分の現実の方が大きくなる。
だが、果たしてそうだろうか。
なにか歴史に遺るようなことをしたから、偉大なのだろうか。なにか大変な犠牲を払ったら、それはすばらしいのだろうか。
そうではない。何かを社会や地域、人のためにしたから偉大であり、尊敬に値するののだ。
だとすれば、それはみんなどこかでやっている。仕事に励むことも、子どもの成長や健康に気を配り、身近な人たちのことを気に掛ける。そこにすでに、それはある。
きっと偉人というのは偉人であるためになにかをしたのではない。心揺さぶられる生き方をした人もだれかの心を揺さぶるために、それをしたのではない。
自分にできる何かをしようとして、そうなったに過ぎない。
普段はよきことのひとつもできてないな…。そう思ったら、ささやかでも、よき事のひとつをやればいいのだ。次の日は、また、人をけなしてみたり、怒って人を傷つけるかもしれない。だが、そしたら、また、自分をふりかえり、次に、なにか、よき事をすればいい。
普段はよきことのひとつもできてないな…。そう思ったら、ささやかでも、よき事のひとつをやればいいのだ。次の日は、また、人をけなしてみたり、怒って人を傷つけるかもしれない。だが、そしたら、また、自分をふりかえり、次に、なにか、よき事をすればいい。
そして、だんだんに、自分のダメなことが少なくなり、自分のよきところが、表に出ていくように意識するようになっていけばいい。
遅い早いは関係ない。時間がかかる、かからないは問題ではない。偉人や尊敬される人になろうとするのではなく、自分を勘定から引き算できる人であろうとすればいい。
そうすれば、互いが少しだけ生きやすくなり、互いが少しだけ、互いの声が聴けるようになる。