秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

不幸の凌ぎ方がその人を決める

昨日は久々の全日オフだというのに、朝6時に眼が覚めてしまう。歳のせいではないw 6時起きが普通の状態が続いたからだ。場合によっては5時起きだった。
 
さっそく、このところの忙しさで溜まっていた洗濯や部屋の掃除、なくなっていた日用品を買いにドンキーへ。
 
上京してから、ほぼずっと、約40年近く、オレは掃除、洗濯、買い物を続けているw 初めて結婚したとき、それはそれでいろいろとうれしいことは多かったが、ふと気づくと、これから週末、洗濯をしなくていいことが、実は一番うれしかったw
 
が、しかし。8年ほどで、事務所暮らしをするようになると、再び、洗濯、掃除、料理の日々が続くようになり、いまではすっかりそれが普通になってしまっている。アイロンかけも自分でやる。
 
いっしょにいた女子が至らないのではない。オレは、それを物書きや編集作業をやるときのひとつのリズムにしている。だから、できない女子を責めることはしない。「できないじゃーん」と、冗談でからかうことはするけれどw
 
身の回りのことをすべて、きちんとできる…というのは、古い日本人の男なら当然のことだった。とりわけ、軍隊生活を経験している方たちはその傾向が強い。さすがに縫い物や繕いは不器用ということはあっても、いつどのようなことがあってもいいように、部屋や服、台所、トイレをきちんとした状態にしておくのは、もののふの心得というものだ…とオレは思っている。
 
だから、女の子から面倒くさい人…と思われるのだろう。生き方はいい加減だが、そういうところだけは、きちんとしていないと気がすまない。女子にいって、あれこれ言い合いになるより、自分でやった方が、手慣れているし、きれいになったり、おいしかったりするので、さっさと自分でやってしまう。

しかし、いっしょにいてくれる人がいれば、基本はまかせる。だが、それがあまり上手でないと、休日を朝から掃除や洗濯に費やさなくてはならなくなり、次第に家から遠ざかってしまうww いけないことだ。
 
頼るものがない。というのはさびしいことだけれど、自分を律するのには、いいことなのかもしれない。自分がやらなければ、だれもやってくれないのだから。いろいろな問題も、人の力は借りるにせよ、自分しかいないのだから、向き合うしかなくなる。
 
それがいい生き方なのかどうかはオレにはわからない。何かの拍子に血管でも切れてしまえば、おしまいだw 家族がそばにいないより、わずらわしさはあっても、いた方が精神的にもいいとも思う。

しかし、生半可な状態や中途半端な折り合いをつけて、だれかと一緒にいたところで、きっと心たよやかにはいられないだろう。どんなにいい女、いい男でも心の通じ合えない異性といて、互いが幸せになれるわけがない。

簡単なことだ。この人といたい。この人との時間を大事にしたい。その思いが互いにあるかどうか。一方だけがそう思うのではなく、互いが同じ程度にそう思い合うことが大事な気がする。そして、互いの自由や自立を尊重しつつ、互いがかけがえなのいものと思い合えることだ。かけがえがないと思えば、そうそう、相手をおろそかにはできなくなる。
 
人生は、長いようで、実は短い。心からそう感じ合える人との出会いは、実はわずかだ。それを大事にできるかどうかで、その人の質も暮らしもあり方も決まってくる…とオレは思う。
 
日々の忙しさにふと人はそれを忘れる。オレもそうだ。だが、大人であるということは、その忙しさの中でも、心配り、目配りを忘れないこと。ダメな生き方、いい加減な生き方をしていても、それができていない人間は、結局は人に、自分に、甘えている。
 
不幸はだれかにだけ、重くあるのではなく、だれにも共通にある。その凌ぎ方が、その人を決めるのだ。