秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

孤独な業

いつも思うことだが、かつて書いた芝居台本やドラマ脚本、映画の作品をふりかえって、これってほんとにオレが書いたのか…と思う。
 
ほとんど昔の作品や制作が終わった台本というのは読み返さないのだが、ごくまれに、ある必要に迫られて、それをやると、必ずそう思う。
 
手前味噌だが、うまいやつだなぁ~と感心するのだw
 
まるで他人が書いたもののように、自分の本を読み返すというのは、私が10代後半から表現というものにかかわるようになって、一貫して、本と演出の両方をやるせいもある。
 
本を書くときは、物書きモードだが、それが終わって、舞台や映画といった空間化の作業にはいると、すっかり人の作品として自分の本に向う。ときとして、それができない危険があるので、芝居にせよ、映画にせよ、私は、現場の段取りのためではなく、表現にかかわるひとりのクリエーターとして、スタッフ全員に本を読ませ、好きなように、意見を述べてもらう。
 
最良の意見はスタッフが持っている。そう確信している。あとは、俳優の生理。これは、実際に現場でないと出てこない。事前の策は、やはり、スタッフなのだ。仮にそれがつかえないものだったとしても、対象化の作業を代償してくれる。
 
受注の作品だと、プロデューサーなど制作主体からあれこれ注文や指摘があるが、それが説得力があるのは、ほぼ3割しかない。大方は、現場の生理と異なるところで注文がつけられる。
 
優秀なプロデューサーだと、こちらの考えを生かしながら、作品とは別の戦略的な手直しをいうのだが、凡庸な人は、それができない。結果、平均すると、それくらいしか、現場の生理に叶わない。
 
若い頃やわがままがいえた頃は、ただ本だけ、ただ演出だけに集中して取り組めたが、ある程度の年齢になってくると、それだけではないことに目を向けなくてはならず、かつてのように、何も考えずに発狂することができなくなっている。
 
が、しかし。久々、今回の作品は発狂モードになりつつあるw
 
私とまともに付き合った女性はわかっているが、付き合いの浅い女性だと、この発狂がわかってもらえない。
 
他人や同性はいいとして、ある程度自分と精神的にも、肉体的にも近い関係にある人間は、この時期は私に近づかない方がいいw

思考を中断されたり、作業を中断されると、激烈に怒る。怒らないまでも超不機嫌。これまで、何度、それで女性がいなくなったことか…w

だから、この時期はなるべく、人とは会わないようにしている。ご迷惑をかけるからだ。電話や文章でのやりとりは問題ないが、共にそこにいられると、大変なことになる。

いけないことだが、そうでないと、いつかその本をふりかえったとき、これはオレが書いたのか…と思える作品にはならないのだ。
 
孤独な格闘の姿は人に見せるものではない。いい作品は最後は沈黙の中で生まれる。いい作品ができるのなら、女性がいなくなってもやむえない。
 
悲しい孤独な業だw