秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

自由の話をしよう!

来月の高校生に向けた講演テーマを「東日本大震災が教えたこと 自由の話をしよう!」に決めた。
 
人の自由を遮るものは何だろう。
 
その多くは、実は、他者や組織、集団ではなく、その人自身である場合が多い。
 
こんなことをいったら、周囲からヘンな目で見られてしまうのではないか。こんなことをしたら、みんなに嫌われるのではないか…
 
あるいは、上司や組織に従順でなくては、将来や出世や昇給がなくなるのではないか…

だから、周囲やみんなに合わせて、上司や組織のあり方に疑問符を投げかけることはしない方がいい…という中で、その人自身が自らの自由を放棄する。
 
また、あるいは、自由をはき違えて、根拠や客観性のない自分だけの正義をふりまわし、利己心とは気づかずに、私個人だけの権利主張ばかりする。
 
自分の思い通りにならないこと、わずかばかりの自分の知識や情報だけで、何かを批判したり、非難する。

自由とは、つまり、他者や組織だけではなく、自分自身からも自由であることなのだ。いや、まず、自分自身から自由でなければ、真の意味での自由を理解し、獲得することができない。
 
それは、なぜか。簡単なことだ。相手の自由の主張を認めないところに、自分自身の自由はない。自由であるためには、自分という執着からも自由になり、人それぞれに異なるであろう自由を理解し、どこまでが互いの自由の境界線なのかを探ることが一番必要なことだからだ。

ねばならない。あらねばならないという線引きを先にしていては、互いの自由の保障は生まれない。
 
人は有史以来、ときに諍い、闘い、殺し合いを行い、そして、法を設け、懲罰をつくるという様々な制度設計の過程の中で、自由の保障はどこにあるのかを探し続けてきた。そして、いまもそれは続いている。

いい子教育の好きな大人は、自由は責任と義務があって初めて成立するのだ…といった愚かなことを子どもたちに語る。

そうではない。そうした漠然とした言葉で、自由というものの意味や本質を伝えることなどできはなしない。
 
自由であろうとせよ。まず、そこから始めさせなくてはいけない。その上で、自由であろうとして、ぶつかる様々な壁を実感させることだ。自由であろうとしていた自分が求めていたものが、他者の自由を侵食することだ…と気づかせることだ。あるいは、自由であろうとしてぶつかる制度や常識の壁を知らせることだ。
 
そして、どうしてできないのではなく、どうしてそうなっていないのだろうと気づかせることなのだ。その問いを持つことによって、初めて人は、自分の中にあった不自由の元凶と、世間にある不自由さの姿が見える。
 
そして、それを突破するための行動がみえてくる。自由を求める自己との旅は、結果的に互いの自由の尊重に結びつく。それは同時に、互いのいのちへの尊厳への目覚めに通じていく。