秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

けじめ、くぎり

けじめ、くぎり…といったものができる人とできない人がいる。
 
もっといえば、できるできないを考えられるゆとりのない人もいれば、そもそも考えることを放棄している人もいるw
 
心が落ち込んだり、病んでいると、気持ちの切り替えがうまくできなかったり、眼の前のことにあたふたしてしまい、けじめ、くぎりをつけることが煩わしくなるときもあるだろう。
 
何かに心を奪われていると、すべてが些細で、微小なことに思え、それについて、時間をとられたり、脳の一部を占められることが煩わしくてしょうがなくなるのだ。心が緊張していると、脳も委縮するから、それは当然といえば、当然のこと。
 
そうなると、けじめやくぎりなどというものが、そもそも必要なのか…という思いにかられてしまう。確かに、オレもそういうことがたまにある。

で、結論だけが先にきてしまい、けじめのための説明やくぎりのための人や物事との対応が手薄になる。いいじゃん。もう結論出てんだからさ。と、乱暴にもなる。だが、それでは、気持ちがよくない。そうやってみて、気持ちのよかったことが、オレには一度もない。
 
乱暴になるのはいい。追い詰められていれば、そうならざるえないときが人にはある。しかし、その乱暴さも含めて、変化があるときは、変化の影響を受けている人間には、あいまいさは残っても、きちんとけじめをつける姿勢は必要なのだ。それ自体が、互いのけじめやくぎりになる。
 
それをするのとしないのとでは、その後の人間関係や周囲の影響も違ってくる…とオレは思う。
 
相手が石頭で、けじめやくぎりが必要なことに鈍感なら、どうしようもないが、そうでなければ、人が思うほど、けじめやくぎりをつけることにエネルギーは必要としない。
 
エネルギーがいるのは、そうしたことを最初から煩わしいと考えるしかない、閉塞した状態にその人がいて、そうする気力がないからだ。それを奮い立たせる力がなくなっているから、煩わしくなる。
 
自然の移ろいでもそうだが、人と人の関係も、結びつきも、あるいは、いまある生活も、すべてが普遍ということはない。昨日まで元気でいた人が、つぎの日にはいなくなっている…ということだって、いつ起きても不思議はない。あるいは逆に、昨日までは、だれとも出会いえない孤独をかみしめていたとしても、突然、よき理解者が現れることだってある。
 
どのような出会いも無駄ではないし、まだ出会っていない出会いがずっとないわけでもない。いい思い、いやな思い、いろいろあるが、それと出会っているということは、何かを学ばされているということだし、自分のあり方、生き方を問い返されているだけのことなのだ。
 
ならば、すべてを大切にした方がいいに決まっている。四季が自ら、色彩を変え、空気や温度を変えていくように、人には人の人生のけじめ、くぎりがある。それをおろそかにしないことだ。
 
なんてことは話さなかったが、久しぶりに会ったN子の暮らしぶり、彼氏のことなど聞きながら、ひとつけじめやくぎりができて、ふっきりれてきたのかな…と飲んだ、赤蔵、週末の写真。
 
 
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