秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

わかっていない

日常の生活が大事だ。だから、日々を大切に生きなくてはいけないし、日々を大切にできる人が増えた方がいい。
 
だが、その日常の日々を支えているものは何なのか。多くの人がそれを考えようとはしない。
 
日々を大切にするというのは、自分の生活がよければいいのではない。自分の安全が守られれば、それでいいのではない。また、日常の生活が大事だというのは、自分が置かれた日常が波風立たなく過ごすことではない。
 
日々の暮らしを生きぬくために、人はときとして、なにかと闘わなければいけない。なにかに立ち向かっていかなくてはならない。
 
だが、日々の暮らしを生きぬく闘いというのは、ただ経済的に豊かになるためでも、いまの自分の生活の安心がえられるだけのためでも、人から自分がほめらたり、尊敬されるためではない。自分自身の人としての尊厳や生活権を守るために闘うのだ。

 
では、人としての尊厳や生活権を守る闘いというのは、どういうものなのだろう。
 
当然ながら、人としての尊厳というのは、他者との関係や社会のあり方、国同士の関係、もっといえば、世界のあり方で守られれもすれば、ふみにじられることもある。
 
人の生活権というのは、これも同然ながら、他者との関係、家庭や社会のあり方、働き方、国同士、世界のあり方で守られれもすれば、ふみつけられることもある。
 
つまり、いずれも自分だけの問題ではなく、自分の家庭や地域の問題だけではなく、まして、社会や国、世界のあり方と無関係ではいられないのだ。

日常には、福祉や医療、教育、防災、少子高齢化、保育園の待機児童…。同時に、ひきこもりや不登校、いじめ、虐待、DV、性犯罪、拉致誘拐、ストーカー、動機不明の犯罪、格差が生む貧困、孤立死うつ病自死…といった課題もある。
 
それらは、すべて、もとをただせば、人としての尊厳と生活権の問題ではないか。

繁栄や経済の成長…。金がなければなにもできないから、まずは金を稼ごう。アメリカを手本として、アメリカのような豊かな国になろう。そうやって選択した戦後の政治経済がそのツケとして、この国にもたらしたものだ。

民主主義を自らの手で勝ち取ったことのない国民が、民主主義という名を騙った、強者の論理で突き進んできた道がたどりついた、いまだ。民主主義という名を国民が騙っているから、当然、まともな政治家が出てくるわけがない。出てきたとしても、育てられるはずがない。
 
バイアスのかかったバカ左翼と偏狭で排他的な市民運動とボンクラなアホ右翼、そして、立ちの悪い、お仕着せの正義を語るアホなエセ知識人ばかりが表に出ていては、まともな国の行く末がつくれるわけがない。
 
私が更新していないHPで3年以上前から、何度も連呼しているが、震災ずっと前から、これまでの常識や道徳といった物差しでは、社会は立ち行かなくなっている。
 
それにただ目くじらをたて、古きよき日本の…そんなものは幻想だが…それを復活しようなどと、この国や国民はまだ時代錯誤をやっている。それが人としての尊厳や生活権をふみにじるものだということがわかっていない。
 
たとえば、働かないなんて、学校へいかないなんてという批判の基本は、現実に通用しない常識と道徳がいわせている。刷り込まれたそれがいわせている。働かないなんて、学校へいかないなんて…という以外の言葉を知らない。それが子どもの尊厳をふみにじる言葉だということがわかっていない。

たとえば、それを変えてみよう。経済発展がないなんて、そのために原発がないなんてという批判の基本は、いま、そして、これから通用しなっている過去の経済発展と過去のエネルギー政策がそういわせている。刷り込まれたそれがいわせている。
 
それが以外の言葉を知らない。それが、福島や地方の尊厳と生活権をふみにじる言葉だということがわかっていない。