秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

黄色い猿たち

2011年という年は、それまであった世界スタイル、あるいは世界システムといっていいものが、崩壊した年だ。

ということが30年後、人々に語られる時代がくる。そう考えられる人は、これからの世界や国、社会や地域のあり方、もっといえば、家庭というものの未来像が見えている。
 
おそらく、それにもっとも敏感だったのは、欧米の治世者や権力者たちだったろう。とりわけ、地域間連合といっていい、EUを実現したヨーロッパは、皮膚感覚でそれが実感できた。
 
一国の利益のためだけに生きる国家国民主義が、それを支えてきた自由競争を基本とする資本主義と共に、すでに破たんしていることを彼らは、成熟社会をいちはやく迎えていたがゆえに、理解できていた。
 
アメリカのことには関心が深く、情報を持ちながら、多くの日本人が、韓国、中国といった極東アジアにまったく無関心で、何の文化的な情報も生活者の情報ももたない。場合によってはそこにいったこもなければ、友人のひとりもいない。
 
持たないどころか、極東の黄色民族という共通性を持つがゆえに、スティグマは倍増され、ヘイトスピーチを繰り返し、無駄な対立を深める能力しかない。その程度の知能しかない国家国民にとって、それよりさらに遠いヨーロッパがそこからすでに脱却していることの実感もないまま、観光地にしか見えていない。

以前から口をすっぱくしていっている。EU15か国の中で、自由競争経済や資本主義を標ぼうしている国はわずか2か国。EUの多くが、すでにそこから離脱し、社会民主主義という次の世紀、未来への踏み台のステップを踏んでいる。

なぜなのか。簡単なことだ。いまや国家国民主義は破綻し、ナショナリズム国民意識をひとつにできた時代は終わったことを知っているからだ。

より正確にいえば、それが理論的にわかったのではなく、それまでの国家国民主義、一国主義では、ままならない、たちいかない、生きていけない、生きていくのが息苦しい…という生活の現実やそう感じる国民が登場したからだ。
 
じゃさ、こんな息苦しい、わけのわからん国境や国家とか、それに帰属する国民とか、国民意識とかいう曖昧なものでつくられる社会幻想、ナショナリズムといった世界から抜け出して、よその国に勝つとか負けるとか…勝たなくちゃとか…そういうのは、スポーツだけにして、他はやめればいいじゃん。
 
いわゆる、国家国民主義をささえる、ひとり勝ちや仲間勝ちを目指す競争原理主義、資本主義、それに支えられた一国主義はやめちまおうぜ…と言い出したからだ。
 
それよか、手間暇かけても議論をして、互いの利益になる合意点を探し、無駄な対立と無駄な競争を地域間(ここでは欧州各国)でやるより、欧州そのものを一つの国と考えた方が、よりそれぞれの国にとって有益じゃないか…そう考えた。
 
そこにはひとつの大きな要因がある、どうしたって収集のつかない民族対立の歴史だ。隣国間の血で血を洗う歴史だ。国家という幻想を維持できなくなるほどの身体に染みついた、同国民でありながら人種、民族が違うという多様性だ。

あるいは宗教の多様性といってもいい。そして、成熟以後登場した、市民個々の生活欲求の差異の多様さと市民が国家に求める役割の変化がそれに拍車をかけた。
 
だからこそ、ジャスミン革命が起きたとき、それが次に生み出す新しい世界観を示すものだということが欧米人には見えていた。もちろん、すべてを容認はしていない。

だが、これから向かうであろう世界の姿が否定しようとしても、これまでの国家国民主義ではままならない現実であることを知った。

それを世界的に実感できていないのは、まだ真の意味で成熟化を果たしていないアジアだ。もっといえば、中途半端に経済力を得ていながら、民度がそれに追いついていない日中韓だといっていい。

同じ穴のむじなにいると、黄色民族同士のスティグマばかりでなく、同じ穴にいることで世界を見る眼を奪われる。
 
アメリカが日韓の対立にいら立っているのは安全保障上の問題もあるが、それ以上に、どうしてこうも黄色民族には、世界が見えていないんだという思いの方が強い。
 
アジアの黄色い猿たちは、互いをひっかきながら、終ってしまった国家国民主義にしがみついて、終ろうとしてる社会幻想で国をまとめようとする。それが、脱欧米の道となる、アジア主義を捨てさせる。
 
国は、決して、あなたたちが思うほど、一枚岩ではない。そう思うのは、そうありたいと願うのは勝手だ。だが、現実はそうではない。
 
その現実を受け入れたとき、始めて次に進む道が見えてくる。