秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

希望の国

このところ、訳あって韓国映画を見続けている。

 

私だけではないだろうが、高度成長期から消費社会へ向かう過程を時間差で追いかけてきた、中国や韓国の映画は、あの時代に少年期から思春期、青年期を過ごして来た多くの日本人にとって、ある種、自分たちの時代を見ているようなノスタルジーを感じさせる。

中国が改革開放に向かい始めて数年の頃に、仕事で北京を毎月10日近く訪れていたことがある。

初めての北京で観たのは、私がまだ幼稚園の頃の日本の風景だった。そして、かつての日本の親たちがアメリカのような国を目指したように、私と同世代の30代の彼らが日本のような豊かなアジアの国になろうと希望と意欲に満ちて日々を過ごす姿がそこにはあった。

韓国映画が国内で一定の評価を得られるようになったのは、1999年に公開された『シュリ』インパクトが大きい。

 

韓流ブームの先がけとなった作品だが、日本の技術協力もあったとはいえ、CGの活用や俳優たちがリアリティを出すために実弾訓練や特殊訓練を受けるという、それまでの韓国映画、いやアジア映画にない取り組みをしたことで知られている。それゆえに、ハリウッドと遜色のない、アクションのスピード感、スケール感が話題になった。

だが、『シュリ』ヒットの背後には、そうした見栄えの部分ではなく、38度線で分断された国の悲劇と半島に生きる民族の相克がある。何事もないかのような日常を装いながら、しかし、国家にある矛盾や不条理、国民感情に深くある傷や葛藤といったものを描いていたからだ。

つまり、アクション映画とはいえ、自国にある問題と矛盾を正面から捉えていた。

2000年からこの20年に制作された韓国映画を観ていると、この姿勢がコメディにせよ、アクションものにせよ、時代ものにせよ、一貫していることに驚かされる。

当然と言えば当然なのかもしれない。

軍事独裁政権から民主化運動、さらに民主国家となってからも政権の弾圧と腐敗が起き、その度に民衆が立ち向かい続け、多くの一般市民や学生が生活権を守るために、いのちを落としてもいる。民主化されても、国民生活の格差は進み、持つものと持たざるものの葛藤と対立は常にある。その上、徴兵制があり、北の脅威が日常だ。

そういった社会で、国や政権、社会のあり方、生活のこれからに無関心、無頓着ではいられない。時代を映す鏡でもある映画や演劇、アートがそれと無縁でいられるはずもないのだ。

韓国映画には、程度の差はあれ、必ずどこかに主人公の家族が登場する。家族の登場シーンが多い作品には、親戚縁者から地域の古くからの関係者や年長者が現れる。テーマがなんであれ、それは、韓国社会にまだ、地域性や地域と家族のつながりが濃密に残されている証左だ。

土着性や土俗的なものが人々の生活の基本にどんと残されている。当然、面倒な付き合いもあれば、意見の齟齬や対立、食い違いも生まれる。濃密さゆえの傷つけ合いもある。だが、それらをひっくるめてすべて韓国映画はモチーフとしている。

それは、国や社会、地域、家庭が、そうした矛盾や葛藤、対立のあるものだということを自明としているからだ。同じでありたいが同じになりえない。だが、諦めずに違いの中でつながりを探す。土着性の否定ではなく、容認から次を求める。

韓国も同調圧力や画一主義の強い国のひとつだが、それに拮抗するように、これらの姿勢が一貫している。

だから、大企業の不正も大統領府や軍の陰謀も、現実にあった事件をモチーフとしながら堂々と描けるのだ。

ひるがえって、私たちの国のマスコミ、映画、演劇界は、この数十年、そうした題材やテーマを正面から扱うことを避け続けている。

韓国映画を観ていると、そこに痛みや哀しみはあっても、明日への希望を捨てず、巨悪や権力に立ち向かう姿がある。しっぽを振ることも、項垂れて諦めそうになることもある。だが、その弱さや無力感を土着的な力が支え、後押しして、立ち上がらせる。

おそらく、私たち日本人が高をくくっていた間に、韓国もその他のアジアの国々も、私たちの国が余計なものとして、捨ててしまったものをいまだ大事に持ち続けているのかもしれない。

それが、私が子どもの頃見ていた大人たちの姿。矛盾と葛藤の中で、明日への望みを捨てていなかった、希望の国の姿だ。

自分を覆う、社会の矛盾や力の圧力に屈してはならない。