秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

憲法のいろは

いつも講演や対談、シンポジウムなどで、折に触れ語っている。
 
たとえば、日常の平穏が担保され、つづがない毎日が続くであろうという安心感を抱ける、平時の世界にあって、人を殺してはいけない、人を貶めてはいけない、差別やいじめはいけない…といった、生活権や基本的人権について語り、それを遵守すべきと考え、行動することは容易なことだ。
 
あるいは、民族や宗教、肌の色、生活習慣、生活文化の違いによって、排他したり、偏見を持ち、それら他の民族の尊厳と誇りを傷つけてはならない…それらを根源とした対立や紛争、戦争はいけないと平和を唱えることは難しいことではない。
 
また、あるいは、出自や門地、つまりは、生まれや育ち、学歴や社会的地位、貧富の差によって人の価値を決めるのではなく、その人そのものの人格や性格、生きる姿勢によって判断すべきと主張することも容易だろう。

公平性と平等性、それらを守るための自由=基本的人権の保障や平和主義は、ことほどさように、平時にあるとき、それが本音であろうがなかろうが、人は容易に言葉にすることも、そうだと頷くこともでき、社会的合意であり続けることができる。

憲法とは、こうした平時にあって当たり前であり、つづがなく成立するときに重要なのではない。

社会や国家が緊急事態に直面し、非常時となったとき、情緒や心情、一時の怒りや高揚感に治世者や国民自身が支配され、平時にあって遵守しうる、普遍的であるべき価値の体系を喪失しそうなとき、原理原則に戻すための国家の羅針盤なのだ。

そのために、憲法は、現実ではなく、地域、社会、世界、地球的人類の理想を語らなくてはいけない。そして、理想を理想として終わらせず、それへ向けたたゆまざる努力を誓い、これを実現するために、治世者を国民が監視し、拘束するものではなくてはならないのだ。

世界の近代憲法が多くの血といのちを犠牲にし、同族や周辺国家とのたえざる対立を乗り越えるために誕生したのも、この理想の実現を世界に誓うことによって、非常時にあって、かつて犯した過ちを抑止するためだ。

人はそれほどに、一旦、非日常の非常時にあるとき、いかようにも変容する邪な存在であり、不確かで、過ちを犯す存在だということを近代を自らの権利闘争の中で獲得した国家と国民は知っている。

世界の情勢や時代の趨勢に対応することが憲法の目的でも誕生の動機ではない。まして、憲法は政治家がつくるものではなく、国民の意志と決断によって生まれるものだ。
 
近代国家であれば、当然であるこうした憲法のいろはをあえて語らなくてはいけない国家とはいかなるものか。憲法のいろはを知らぬ政治家に国をまかせている国民の民度とはいかなるものか。
 
憲法の条文をもう一度よく読むといい。そこには、東日本大震災以後の日本が進まねばならない道すじがきちんと書かれている。実現していない国の理想をないがしろにして、東日本大震災以後の日本をどう築けるというのか。

いつもいう。憲法をさわらずとも、修正条項を新たに設けることで多くの現実的課題に対処することはできる。先進国のすべてがそれによって、憲法の理想、成立原文の理想をいまも守り続けている。