秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

あなたたちが見ているのは、どこの世界なのだ

人々の意志や納得の上にこそ、政治はなくてはならない。つまり、国民的合意のもとに政治は成り立つのだ。
 
もちろん、学習し、課題を示し、解決案を提示し、そのための方針や目標を示し、それを達成したとき、明日への夢や希望が今日の現実となるように、人々を導く力は必要だ。
 
その力とは、多様で、個別的で、それゆえに、ときには利己的もあり、わがままでもあり、身勝手かもしれない人々の声を丁寧に解きほぐす力であり、また、利己的で、わがままで、身勝手な声に、しっかりとその無自覚さと無知さとを知らしめる力でもなくてはいけない。
 
人々の生きる価値や基準が多様化し、生活そのものの流動性が高まったいま、かつてのように、人々が一つの目標、一つの未来に万遍なく合意する…というとは不可能ともいっていいだろう。それは人々…だけではなく、政治を担う者たちにおいても同じだ。しかし、不可能だからと何かを簡単に切り捨てる…というやり方は、実は、もっとも政治家がやってはならない手法。先ほどいったように、解きほぐす、知らしめるという煩わしさを避けていては政治ではなくなる。
 
政治はまず国民全体の安全と安心のためにあり、まず制度ありき、国家ありきではない。人の見えない政治は政治ではない。それはかつての戦争をみれば一目瞭然。近くは小泉以後の自民党政治をみればすぐにわかる。
 
停滞や遅滞の要因となっている制度やしくみの齟齬は、大いに糾弾し、改革し、意識変更を強く迫っても構わない。そこに桎梏となっている組織や人がいれば、場合によって、ぶっつぶす腕力が必要なときもある。だが、それを避けて通れる道を探すのも政治家の責務だ。
 
政治家は所詮、選挙民、市民、国民によって選択され、かつ選挙民、市民、国民の血税によって、その身分と生活と政治活動が保証されていることを忘れてはならない。当然ながら、自分たちを支持してくれた選挙民によってのみ、その身分や収入が保証されているのではないからだ。

こうした原理原則が全くわかってない政治家が多すぎる。献金や投票をしてくれた人々、俗にいう支持者や支持母体、あるいは完全にバックアップする圧力団体といったもののためにだけ、政治をやる奴がいる。そういう奴らにとって、投票しなかった人々の声は、聞こえなくなる。
 
あるいは、二世議員、三世議員にみられるように、健やかで安全に政治の世界に入り、まるで自らが選挙民ではなく、生まれながらに政治家としての使命を授けられているように勘違いしている奴らもいる。そういう輩にとって、人々の声は選挙のための声であって、国民全体の安全、安心のために奉仕する公僕の一人に過ぎないという謙虚さはない。
 
いま関西電力大飯原発3号機、4号機が、ここにきて政治決断という名のもとに再稼働されようとしている。消費税論議もしかり。すべて国民的合意のないところで進んいる。この答は簡単。自民党が麻生、安部という愚鈍な首相をつくり、政権をたらいまわししたときと同じく、選挙によって信任された政権ではない。つまり、合意は形成されていない。
 
裏のしかけは実に簡単。
 
消費税増税派の多くが原発推進派。ただでさえ、まとまりのつなかい政局の中で、消費税増税を今国会で決着させるには、原発推進を強引にでも進めたい経産省など中央官庁、大手電力会社、経団連が抱える数の力と圧力が欲しい。野田政権になってから、開発計画の多くを削除された国土交通省の施策が次々に復活しているのも、同じ。これには国土交通省と強いパイプを持つ公明党を巻きこむ計算も働いている。
 
つまりは、そこに、原発事故によって国民の中に広がっている多様な思い、検証も議論もあいまいなまま、かつ、現実にそれによって多くの生活の困難に直面している人々の痛みも棚上げにされている。増税にせよ、東電の電気料金値上げにせよ、それによって生まれる多くのマイナスも揉み消されている。
 
この国の政治家、この国の大企業は自分たちだけが国を動かし、国をつくり、国を支えているとでも思っているのだろうか…そのあまりの厚顔無恥さは筆舌に尽くしがたい。世界から見たら…とよくこういう人々はいう。あなたたちのいう世界とは、どこの世界なのだ。あなたたちが見ている国民の安全、安心とは、どこの国民の安心、安全なのだ。
 
いっておくが、あなたたちが世界と思っているものなんて、とうに終わっている。10年先の世界がみえない人間に政治をやる資格はない。