Humans of FUKUSHIMA
昨日、夕刻過ぎに表参道の246commonからぶらぶら歩きながら、乃木坂までの裏通りを歩いていると、きれいに半月の月が夜空にぽっかり浮んでいた。
昼間の気候とはうって代わり、ほどいい、さらさらした風の中、ヒルズの上空たかく、夜空に浮かぶ半月が美しかった。そして、思った。
昼間の気候とはうって代わり、ほどいい、さらさらした風の中、ヒルズの上空たかく、夜空に浮かぶ半月が美しかった。そして、思った。
まさに、この世の実相を月が表している…
オレたちは月の陰影の変化をこうして地球の上から冷静に眺めることができる。逆に月の上からこの地球を見れば、同じように、その刻々と変わる陰影の変化を冷静に眺めることができるだろう。
このところ、ある考えがあって、自分のフォールに、たまにFBの英語圏情報をリンクしている。ABCやCNN、BBC、TIMEやNewYoker、Washington Post、London Evening Post…9.11から1年経たないで取材にいった、市民新聞(donation)The Independenntなどの記事だ。
このところ、ある考えがあって、自分のフォールに、たまにFBの英語圏情報をリンクしている。ABCやCNN、BBC、TIMEやNewYoker、Washington Post、London Evening Post…9.11から1年経たないで取材にいった、市民新聞(donation)The Independenntなどの記事だ。
アメリカで起きているシャットダウンの報道、中国の公害被害の現実、シリアの現状、アフガンから英軍が撤退するニュース…そうした日本のマスコミでは日常的に決して深く報道されない情報、でありながら、私たちの生活と深く結びつく世界の動き…
それにまじって、FBらしい情報がある。人のネットワークを基本にしたソーシャルサイトらしいものだ。
それにまじって、FBらしい情報がある。人のネットワークを基本にしたソーシャルサイトらしいものだ。
Humans of NewyorkやPortraits of Bostonいったもの。Parisもある。いわゆる、世界の主要都市、そこに生きる普通の生活者をフューチャーしたものだ。
大仰なニュースにもならない、かつてO・ヘンリーがセントラルパークに集まる人々の雑感を愛情とユーモア、ペーソスを織り交ぜて、丁寧に描いたように、そこには、ごく当たり前の人たちの、しかし、心温まるふれあいや思いが写しだれされている。
世界のはるか遠く、おそらくは、私たちの時間が深夜であったり、未明である時間…世界の月が隠れ、太陽がのぞき始めた世界のどこかで、そうした人たちが、いろいろな思いと願いの中でいまを生きている…と深く感じさせるものだ。
国境や民族、生活習慣や信条、宗教といったものが違っていても、人が同じ生活者として抱く様々な希望や行動に、大きな違いがあるわけではない。それでいながら、それぞれの都市の環境や伝統や生活のいまのにおいが特性をもって、伝わってくる
…
この特性と違いの共有がなければ、世界で起きる血なまぐさい現実や不条理で理不尽な現実を乗り越える、協働の知恵は浮かんでこないかもしれない。
私は、執拗に福島の問題にこだわっている。だが、同時に、福島というこの国の問題を自分たち日本人の最大の悲劇として考えているのではない。世界の至るところで、形や姿、質は違っても、いろいろな不条理と理不尽さ、それによる悲劇は起き続けている。
この特性と違いの共有がなければ、世界で起きる血なまぐさい現実や不条理で理不尽な現実を乗り越える、協働の知恵は浮かんでこないかもしれない。
私は、執拗に福島の問題にこだわっている。だが、同時に、福島というこの国の問題を自分たち日本人の最大の悲劇として考えているのではない。世界の至るところで、形や姿、質は違っても、いろいろな不条理と理不尽さ、それによる悲劇は起き続けている。
それにコミットとする道が、実は、私たちの福島なのだ。
決して、悲劇は涙の顔だけを見せてはいない。笑顔のときにもそれがあれば、怒りのときにもそれはある。あるいは、消えた表情の中にもそれがある。
ごく普通の、当り前に今日を生きる人たちの笑顔や怒りや無表情にそれがあるように。だから、人にこだわらなくてはいけない。情報に意味と価値を持たせ、人の心になにかを届けるには、そこに人へのこだわり、人を伝えるということが第一になくてはならないと思う。
Humans of FUKUASHIMA…それがじつは、この取り組みでもあるのだ。